西郷 糸子 (1843-1922)の肖像
西郷 糸子の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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西郷 糸子

さいごう いとこ

Saigo Itoko

西郷隆盛の三度目の妻。城山に散った隆盛を遠く鹿児島で見送り、明治・大正を一族の支え手として生き抜いた薩摩の女性。本サイト初の女性偉人。

生没年
出身地
薩摩国(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京
時代
明治・大正
役職
西郷隆盛継室
区画
1種イ11号21側
タグ
西郷隆盛の妻 / 薩摩 / 西南戦争 / 明治の女性

西郷隆盛の妻 — 城山に散った夫を見送り、半世紀を生きた

西郷糸子は、西郷隆盛(1828-1877)の三度目の妻である。慶応元年(1865 年)に薩摩で隆盛と結婚し、長男・寅太郎、次男・午次郎、三男・酉三の三子を生んだ。

明治 10 年(1877 年)2 月の 西南戦争勃発時、糸子は鹿児島の城下に留まり、夫が士族 1 万 4000 を率いて九州を転戦するのを見送った。同年 9 月 24 日、鹿児島・城山で隆盛が自刃。糸子は 35 歳で未亡人となった。

その後、糸子は 45 年間を生き、大正 11 年(1922 年)に東京で 80 歳の生涯を閉じる。明治政府からの恩典(西郷家の名誉回復・寅太郎の侯爵授爵)を粛々と受け、しかし政府の中に深く入ることなく、薩摩の女性として一族を支えた。

本サイトに掲載される 初の女性偉人として、明治・大正の女性史の一断面を伝える人物である。

薩摩の士族の娘から、西郷家へ

天保 14 年(1843 年)3 月 8 日(陽暦 4 月 8 日)、薩摩国の士族・岩山八郎太(直温)の三女として生まれる。岩山家は薩摩藩の中級士族で、武芸・学問の家風で知られた。

慶応元年(1865 年)、22 歳のとき 西郷隆盛(当時 37 歳、薩摩藩家老)の妻となる。隆盛にとっては三度目の結婚であった:

糸子と隆盛の結婚は、隆盛の 第二次帰京・倒幕運動の本格化前夜であり、慶応 3 年(1867 年)の 大政奉還、明治元年(1868 年)の 戊辰戦争を妻として共有する立場となった。

維新後 — 隆盛とのわずか 12 年

維新後、糸子は 3 子を出産:

明治 6 年(1873 年)の 明治六年政変で隆盛が下野して鹿児島に戻ると、糸子は鹿児島の 武村(武家屋敷)で家族と暮らした。

明治 10 年(1877 年)2 月、西南戦争勃発。隆盛は私学校生徒・士族 1 万 4000 を率いて熊本へ進撃した。糸子は鹿児島に残り、政府軍の包囲と度重なる戦況悪化の報を聞きながら、3 子を抱えて夫の帰還を待った。

しかし隆盛は帰らなかった。9 月 24 日、城山で隆盛は自刃。糸子は同じ鹿児島にいながら、夫の最期を見送ることになった。

未亡人として 45 年

西南戦争後、糸子は 「賊将の未亡人」として鹿児島で隠遁。明治 22 年(1889 年)、大日本帝国憲法発布の 大赦で隆盛の 名誉回復・正三位追贈が行われ、糸子の生活も次第に表に出るようになる。

長男・寅太郎は明治政府の援助で ドイツ陸軍大学校に留学(1884-89 年)、明治 26 年(1893 年)に 侯爵に叙された。これにより西郷家は華族として復権、糸子も 侯爵夫人の地位を得る。

明治後期から大正期、糸子は 東京(西郷家本邸)・鹿児島を行き来しながら、明治政府の旧首脳(山県有朋・松方正義ら)の訪問を受け、また自分から訪ねた。「夫の死を政争に利用させない」という静かな矜持を保ち続けた未亡人の長い晩年であった。

大正 11 年 6 月 29 日、東京で逝去

大正 11 年(1922 年)6 月 29 日、東京で死去。享年 80。隆盛と死別してから 45 年、明治・大正という二つの時代を未亡人として生き抜いた。

葬儀は鹿児島と東京の両方で営まれ、東京の墓所は 青山霊園 1種イ11号21側。鹿児島の南洲墓地には隆盛が眠っているため、夫婦は別々の地に眠ることになった。

親族の著名人

逸話・エピソード

城山陥落の報を受けた朝

明治 10 年(1877 年)9 月 24 日、城山で隆盛が自刃した報せが武村の屋敷に届いたとき、糸子は 3 子を抱えて声もなく座り込んだと伝わる。隆盛の遺髪が後日届けられると、それを神棚に納めて毎朝拝むことを 45 年間続けた。「賊将の妻」として鹿児島で隠遁する間も、夫が朝敵とされた評価に対して糸子は一切の弁明をせず、ただ沈黙を守った。

「西郷の妻」としての矜持

明治後期、東京に出てきた糸子のもとには、山県有朋・松方正義・大山巌ら旧薩摩閥の元勲が頻繁に訪れた。山県は隆盛との往時を語りに来たが、糸子はそれを「過ぎたこと」として深く問わなかったと伝わる。明治政府の中枢にいた人々と、城山で散った夫 — その引き裂かれた関係を、糸子は一切の感情を表に出さずに受け止め続けた。

質素な未亡人の暮らし

侯爵未亡人として華族の地位を得ながら、糸子の暮らしは終生質素だった。豪奢な調度を持たず、客人にも薩摩風の素朴な食事しか出さなかったという。「夫が西郷だから、それらしくありたい」と周囲に語ったとされる。隆盛が生前、贅沢を嫌い粗衣粗食で通した姿勢を、未亡人として 45 年間まもり通した。

青山霊園に眠る

西郷糸子の墓は、青山霊園 1種イ11号21側。同じ「1種イ11号」の区画には、自由民権運動家・植木枝盛(12 側)、陸軍元帥・上原勇作(19 側)などが眠る。

「賊将の未亡人」として 45 年を生き、明治国家から最終的に 侯爵未亡人として遇された女性が、自由民権の闘士・陸軍元帥と同じ区画に眠っている。夫・隆盛が南洲墓地で 5,000 余りの薩摩士族と眠るのに対し、糸子は遠く東京の青山霊園で、明治国家を作った人々と隣り合って眠ることになった。

夫婦が別の地に眠るその配置自体が、西郷隆盛をめぐる近代日本の引き裂かれた評価を、最も静かに語っている。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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