税所 敦子
さいしょ あつこ
Saisho Atsuko
「明治の紫式部」と称された女流歌人。明治天皇皇后の女官「楓内侍」として宮中で文学指導を担い、明治六歌仙の一人に数えられた。
「明治の紫式部」と呼ばれた女流歌人
税所敦子は、明治期に「明治の紫式部」と称された女流歌人である。明治天皇皇后(後の昭憲皇太后)に仕える女官「楓内侍(かえでのないし)」として宮中に出仕、明治皇室の文学的素養を支え、明治 20 年代の歌壇で「明治六歌仙」の一人に数えられた。
京都の歌人の家に生まれ、6 歳で歌会に詠んだ歌が大人たちから称賛されたという早熟の才。16 歳で 16 歳年上の薩摩藩士・税所篤之の許へ嫁ぐが、27 歳で夫を喪い、薩摩の地で姑との苛酷な同居生活に耐えた。後年「鬼ばばなりと人はいうらん 仏にも似たる心と知らずして」と詠んだ歌で姑と和解した逸話は、女流歌人の倫理的強さを象徴する場面として今も語り継がれる。
明治 8 年(1875 年)、50 歳で明治天皇皇后に召し出されて宮中に出仕。「楓内侍」の名で皇后の歌道師範として 25 年仕え、明治皇室の文学・教養の中心人物となった。明治 33 年(1900 年)2 月 4 日、東京で死去。享年 75。皇后は手許金を投じて青山霊園に墓碑を建てさせた。
生涯で詠んだ歌は 4 万首と伝わり、現存するのは約 2 千首。歌集『御垣の下草』(1888 年)・『内外詠史歌集』(1895 年)などを残す。
6 歳の歌会、虚空蔵菩薩への一夜の願
文政 8 年(1825 年)3 月 6 日(陽暦 4 月 23 日)、京都鴨川東錦織村に生まれる。父は林氏、京都で歌道に親しむ家系であった。
6 歳のとき、父が主催する歌会で初めて一首を詠み、居並ぶ歌人たちが「子供とは思えぬ」と感嘆した。10 歳の年、敦子は「歌の名人になりたい」と願って、京都の虚空蔵菩薩(智恵を司る菩薩)に一晩こもって祈ったと伝わる。少女時代から、自分の生涯を「歌の道」に賭ける覚悟を持っていた。
千種有功(ちぐさ ありこと、堂上歌人)・八田知紀(はった とものり、宮廷歌人)・福田行誡(ふくだ ぎょうかい、浄土宗の高僧で歌人)らに師事。10 代後半には京都歌壇で名を知られる存在となった。
16 歳、薩摩への嫁入り — 「春野」と呼ばれて
天保 11 年(1840 年)前後、16 歳で薩摩藩士・税所篤之(16 歳年上)の許へ嫁ぐ。京都から鹿児島への遠路の嫁入り、夫の姓を取って「税所敦子」と名乗り、薩摩では「春野」と改名された。
嘉永 2 年(1849 年)に長女・徳子を出産。だが嘉永 5 年(1852 年)、敦子 27 歳のとき、夫・篤之が死去。長男も生後 10 日で夭折した。京都に帰る選択肢もあった中、敦子は薩摩に残り、姑と継子 2 人を支える道を選んだ。
「鬼ばば」の姑と、一首の歌
夫の死後、敦子は薩摩の税所家で姑との同居生活を続けたが、姑の当たりは苛烈であった。後年敦子が回想したところでは、衣食すら満足に与えられず、夜間に布団を取り上げられたこともあったという。
その日々の中で敦子が詠んだ歌が、姑の心を開いたと伝わる。
「鬼ばばなりと人はいうらん 仏にも似たる心と知らずして」
「あなたを鬼ばばと世間は呼ぶでしょう、でも私はあなたの心の奥に仏のような優しさがあることを知っています」 — 表面的な厳しさの下にある真意を歌い切ったこの一首を見せられた姑は、それ以降敦子に対する態度を一変させたという。
逆境に屈せず、相手の人格を歌でほぐすという、明治の女流歌人の倫理的強さを象徴する逸話として、女学校の修身教科書などにも掲載された。
50 歳で宮中へ — 楓内侍
明治 8 年(1875 年)、敦子 50 歳のとき、明治天皇皇后(昭憲皇太后)の女官に召された。同年 6 月 23 日、権掌侍に抜擢、「楓内侍」と称した。
宮中での役割は単なる女官ではなく、皇后の歌道師範であり、皇室の文学的素養を支える中心人物であった。月のうち 3 日は水垢離(みずごり、冷水で身を清める)を行い、国民安寧を祈願したという。
明治 20 年代、宮中の歌会始(うたかいはじめ)で詠進される歌の選者・添削者として中心的役割を果たし、皇后・皇太子妃(後の貞明皇后)・宮中女官たちの和歌指導にあたった。50 歳を過ぎてフランス語・英語を独学で習得し、欧化政策期の宮中で外国王室との交流にも知見を活かした。
「明治六歌仙」 — 明治 20 年代の歌壇で最高の評価を受けた歌人 6 人(税所敦子・八田知紀・大田垣蓮月・他)の一人に数えられ、女性として宮廷歌壇の頂点に立った。
明治 33 年 2 月 4 日、東京で逝去
明治 33 年(1900 年)2 月 4 日、東京市牛込区砂土原町(現・新宿区市谷砂土原町)の自宅で死去。享年 75。前日の 2 月 3 日付で正五位を贈位された。
皇后(後の昭憲皇太后)は深く悲しみ、自らの手許金を投じて青山霊園に墓碑を建立させた。皇室から女官個人にここまでの礼遇が示された例は、明治期でも稀である。
歌集の続編『御垣の下草拾遺』は、明治 36 年(1903 年)に長女・徳子の手で刊行された。
親族の著名人
- 夫・税所 篤之(さいしょ あつゆき) — 薩摩藩士、敦子の 16 歳年上、嘉永 5 年(1852 年)死去
- 長女・税所 徳子 — 敦子の歌集『御垣の下草拾遺』を編集・刊行
- 師・福田 行誡(ぶっこう ぎょうかい、1809-1888) — 浄土宗の高僧で歌人
- 師・八田 知紀(はった とものり、1799-1873) — 薩摩藩出身の宮廷歌人
- 師・千種 有功(ちぐさ ありこと、1796-1854) — 堂上歌人、敦子の歌風形成に寄与
逸話・エピソード
月 3 日の水垢離 — 国民安寧の祈り
楓内侍時代、敦子は毎月決まった 3 日に水垢離(冷水で全身を清める修行)を行った。京都の歌人の家に生まれ、薩摩での苦難を経て宮中に上がった敦子にとって、水垢離は単なる宗教儀礼ではなく、国民の平穏を祈る個人的な祈祷であった。皇后はこの敦子の姿を「日本の女性の祈りの姿」として自らの手本にしたと、後年の女官たちが回想している。明治の宮中文化に、京都の歌人の修養が静かに浸透した瞬間である。
50 歳から始めたフランス語と英語
宮中出仕後、敦子は 50 歳を過ぎてからフランス語と英語の学習を始めた。鹿鳴館時代(明治 16 年/1883 年以降)に欧米の外交官夫人が宮中を訪れる機会が増えたためで、敦子は皇后の通訳補佐として欧文の挨拶も担うようになった。「歌の道に終わりはない、語学もまた然り」と弟子たちに語ったという。京都・薩摩・東京・欧州 — 4 つの文化圏を一身に体現した稀有な女性であった。
4 万首詠んで残ったのは 2 千首
敦子は生涯で約 4 万首を詠んだと伝わるが、現存するのは約 2 千首。本人が「これは残さなくてよい」と判断した歌は記録から消した。「歌は心の鏡。鏡が曇ったときに詠んだ歌は、世に出すべきではない」 — 厳しい自選の姿勢が、明治六歌仙の評価を支えた背景である。歌集『御垣の下草』は、その厳選を経た約 1 千首を収める。
「歌の力」で女学生たちの教科書に
「鬼ばばなりと人はいうらん」の歌のエピソードは、明治後期から大正にかけて全国の高等女学校の修身教科書(道徳の教科書)に掲載された。「忍耐と慈愛」「歌の力で人を動かす」の象徴として、明治の女子教育の中で敦子の名は広く知られた。歌人としての評価を超え、女性の倫理的範型として戦前期日本に記憶された存在である。
青山霊園に眠る
税所敦子の墓は、青山霊園 1種イ20号20側。皇后(昭憲皇太后)が手許金を投じて建立させた墓碑で、明治皇室から女官個人への異例の礼遇を物語る。
同じ「1種イ20号」の区画には、咸臨丸艦長として勝海舟と共に太平洋を渡った木村 喜毅(1種イ20号4側、既登録)が眠る。京都の女流歌人と幕末の幕府海軍長官 — 異なる出自・性別・時代の役割を担った 2 人が、同じ区画に並んでいるのは、青山霊園が明治日本の多様な人材を受け入れた縮図である証でもある。
明治皇室・薩摩・京都歌壇の三つの文脈が交差する場所に、税所敦子は今も静かに眠っている。


