税所 篤
さいしょ あつし
Saisho Atsushi
薩摩出身。堺県知事として廃仏毀釈期に正倉院・東大寺・興福寺など奈良の文化財救済を主導した「奈良の恩人」、伯爵。
「奈良の恩人」 — 廃仏毀釈期の文化財救済を主導した薩摩人
税所篤は、明治初期に 堺県知事(明治 2-9 年/1869-1876、当時の堺県は 大和国(現・奈良県)も管轄下に置いていた)を務めた薩摩出身の官僚である。
最大の業績は、廃仏毀釈(明治政府の神仏分離令を受けた仏教排撃運動、明治 1-5 年/1868-1872 がピーク)で 破壊・散逸の危機にあった奈良の文化財(正倉院宝物・東大寺・興福寺・春日大社の建築物と仏像)を 救済したことである。
特に 興福寺は廃仏毀釈で 僧侶が全員還俗、五重塔が 薪用に売却される寸前まで追い詰められた。税所は知事として 興福寺保護を強権発動し、五重塔を守った。「興福寺の五重塔は税所が救った」と奈良ではいまも語り継がれる。
「奈良の恩人」 — 廃仏毀釈の混乱期に文化財保護を実現した数少ない地方官の一人として、税所篤の名は奈良では今も顕彰されている。
廃藩置県後、明治 20 年代に 元老院議官・貴族院議員として中央政界に復帰。男爵 → 子爵 → 伯爵と昇爵し、明治後期まで活動した。
薩摩の下級武士から、戊辰戦争へ
文政 10 年(1827 年)11 月 9 日(陽暦 12 月 26 日)、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)に薩摩藩士・税所篤定の子として生まれる。下加治屋町に近い場所柄、西郷隆盛・大久保利通・吉井友実ら薩摩出身者と若年から親交があった。
戊辰戦争(1868-69 年)では薩摩藩兵として鳥羽伏見の戦い・東北戦争を戦い、新政府軍の中堅指揮官として活躍。維新後は 太政官に出仕した。
堺県知事として — 奈良の文化財救済
明治 2 年(1869 年)、堺県知事(後の府)に就任。当時の堺県は 大和国(現・奈良県)を管轄しており、税所は実質的に 奈良の地方統治を任された。
明治新政府の 神仏分離令(明治元年/1868 年 3 月)・廃仏毀釈運動は、特に 奈良で苛烈であった。理由:
- 奈良は 興福寺・東大寺など南都七大寺を中心とする 古代仏教文化の宝庫
- 春日大社と興福寺は 神仏習合で結びついており、神仏分離で 興福寺側が排撃の対象になりやすかった
- 旧興福寺領 1 万 5 千石が 没収、僧侶が 全員還俗(明治 5 年/1872 年)
- 興福寺五重塔・三重塔が 建材として売却寸前の状態に
税所は知事の強権を発動して 興福寺保護を実施:
- 五重塔の薪用売却を中止(売却額わずか 25 円で取り壊し予定だったとも伝わる)
- 東大寺・春日大社・正倉院宝物の保護を中央政府(太政官)に上申
- 正倉院宝物の保存事業(後の 正倉院曝涼の制度化につながる)
これらの判断は、当時の 「神道国教化」「仏教排撃」の風潮に逆らう困難な決定であった。税所が 薩摩出身の有力官僚でなければ、興福寺の五重塔は確実に破壊されていた。
廃藩置県後の動き — 初代奈良県令、そして中央へ
明治 4 年(1871 年)、廃藩置県で堺県は規模を縮小、明治 9 年(1876 年)、奈良県が 堺県に吸収された。税所は 堺県知事として大和国も統治を続けたが、明治 14 年(1881 年)、奈良県が 再独立(現在の奈良県)、税所は 初代奈良県令は務めず、新たな知事が任命された。
明治後期、税所は 元老院議官(明治 14 年/1881 年)・貴族院議員として中央政界に復帰。男爵(明治 17 年/1884 年)→ 子爵(明治 22 年/1889 年)→ 伯爵(明治 28 年/1895 年)と昇爵。
明治 43 年 2 月 26 日、東京で逝去
明治 43 年(1910 年)2 月 26 日、東京で死去。享年 82。
奈良の興福寺・東大寺は税所の死後も奈良の 観光・文化の中心として現在まで保存され、五重塔は 国宝として日本を代表する古建築の一つとなった。「税所篤がいなかったら、興福寺五重塔も正倉院も今のように残っていない」 — 奈良の文化財関係者は今も口を揃えて語る。
親族の著名人
- 養嗣子・税所 重雄 — 伯爵を襲爵、貴族院議員
- 税所家は薩摩出身の華族系として明治・大正の中央官界に複数の人材を送った
逸話・エピソード
25 円で売られかけた興福寺五重塔
廃仏毀釈最盛期、興福寺の五重塔は薪用として 25 円(現在の貨幣価値で数十万円相当とも)で売却される寸前だった。買い手は塔を解体して梁・柱を売り払い、瓦と金物を回収する計画だったという。税所は知事の権限でこの売却契約を中止させ、五重塔を残した。「あと数日遅ければ、興福寺五重塔は今日この世にない」 — 奈良の文化財関係者が今も語り継ぐ場面である。
廃仏毀釈反対派の薩摩人
明治初期、神道国教化と仏教排撃の風潮が強い中、薩摩出身の官僚で公然と仏教文化財保護を主張する者は少なかった。税所は西郷隆盛・大久保利通と若年から親しい郷中仲間でありながら、文化財保護の場面ではあえて中央政府の方針に逆らう姿勢を貫いた。「仏像も寺も、千年の文化である。壊せばもう戻らぬ」と周囲に語ったと伝わる。
茶人としての顔
明治後期の税所は、政界引退後に茶の湯に深く親しんだ。奈良時代に救った正倉院宝物・興福寺の仏像との出会いが、彼の美意識を磨いたとされる。晩年の邸宅には茶室を設け、貴族院議員仲間や奈良の文化人を招いて茶会を催した。文化財救済の知事から茶人へという軌跡は、廃仏毀釈の時代を生き抜いた人物の静かな結末である。
青山霊園に眠る
税所篤の墓は、青山霊園 1種イ16号12側。同じ「1種イ」エリアには、下加治屋町郷中の盟友 — 大久保利通(1種イ2号、既登録)・川路利良(1種イ4号、既登録)・吉井友実(1種イ6号、本日既登録)・伊地知正治(1種イ9号、本日既登録)・三島通庸(1種イ9号、本日既登録) — が並ぶ。
薩摩閥の元勲が青山霊園「イ」エリアに集結している配置に、税所も加わる形となった。「下加治屋町郷中の盟友たちが、東京の墓地に集合した」という近代日本の構造が、ここにも刻まれている。
しかし税所は 西南戦争で同郷の 西郷隆盛と戦うことになった他の薩摩閥(伊地知・三島・吉井ら)と異なり、「奈良の文化財を守った」という、薩摩閥としては特異な業績を残した。「廃仏毀釈の時代に、興福寺五重塔を残した薩摩人」として、税所篤は 文化財保護史でも独自の位置を占める。





