三島 通庸
みしま みちつね
Mishima Michitsune
内務官僚・山形・福島・栃木県令を歴任、福島事件・加波山事件で自由民権運動を弾圧した「鬼県令」。薩摩出身、子爵。
「鬼県令」 — 福島事件で自由民権を弾圧した内務官僚
三島通庸は、明治 15-17 年(1882-1884)の 山形・福島・栃木の三県令を歴任し、福島事件・加波山事件で自由民権運動を強力に弾圧した内務官僚である。「鬼県令」と呼ばれた苛烈な統治姿勢は、後の 明治政府 vs 民権派の対立の象徴となった。
薩摩出身。戊辰戦争・西南戦争を経て、大久保利通(同郷・青山霊園 1種イ2号で既登録)の引き立てで内務官僚となり、地方統治・土木事業・警察行政を担当。最終的に 警視総監(明治 18-21 年)を務めた後、明治 21 年(1888 年)に没。子爵に叙された。
「自由は土足で踏みにじってよい」という言動で 板垣退助ら民権派から徹底批判された一方、栃木県の道路整備・山形県の三島街道・福島県の会津三方道路など、近代日本のインフラ整備に多大な功績を残した二面性を持つ人物である。
薩摩の下級武士から、戊辰戦争・西南戦争へ
天保 6 年(1835 年)5 月 30 日(陽暦 6 月 26 日)、薩摩国(現・鹿児島市)に薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。下加治屋町に近い場所柄、西郷隆盛・大久保利通・川路利良ら薩摩出身者と若年から親交があった。
戊辰戦争(1868-69 年)では薩摩藩兵として鳥羽伏見の戦い・上野彰義隊戦争などに参加。西南戦争(1877 年)では政府軍として、九州各地で西郷軍と戦った。同郷の盟友を討つことになった経験は、川路利良・野津道貫らと共通する薩摩出身軍人・官僚の十字架であった。
山形県令 — 「三島街道」と道路整備
明治 7 年(1874 年)、酒田県令(後の山形県令)に就任。山形県は雪深く、道路網が極めて貧弱で、東北地方の近代化の最大の障害となっていた。
三島は 山形県・福島県・栃木県を結ぶ道路網(後に「三島街道」と呼ばれる)の整備に強権を発動。地元住民・士族を 強制労働的に動員し、急ピッチで道路・橋梁・トンネル工事を進めた。栗子峠(山形・福島県境)の 栗子トンネル(明治 14 年/1881 年完成、当時の日本最長トンネル)はその象徴的成果である。
道路整備の成果は 明治天皇の東北巡幸(1881 年)で評価され、三島の名声は中央で高まった一方、労働徴用の過酷さで地元の不満が蓄積した。
福島県令 — 福島事件(1882 年)
明治 15 年(1882 年)、福島県令に就任。福島は 河野広中ら 自由党の地盤で、民権運動が最も活発な県の一つであった。
三島は 会津三方道路(会津若松・新潟・栃木を結ぶ大規模道路)の建設を強行、地元住民の 賦役(無償労働)を強制した。これに抗議した県会(議員の過半数が自由党系)は予算案を否決、三島は 県会を解散して工事を強行した。
明治 15 年 11 月、福島事件勃発。河野広中ら 自由党福島支部の指導者数十名が逮捕され、国事犯として起訴された。「自由党は政府転覆を計画している」とする三島の罪状作りは、検察・裁判段階で 無理な拡大解釈が含まれていたが、最終的に河野ら 6 名が 重禁錮 7 年などの有罪判決を受けた。
福島事件は 自由民権運動弾圧の象徴的事件として、明治政府 vs 民権派の対立を全国規模に拡大させた。
栃木県令 — 加波山事件(1884 年)
明治 17 年(1884 年)、栃木県令に転任(福島県令との兼任のち)。同じく 県会との対立・賦役強制を続けた結果、明治 17 年 9 月、自由党急進派 16 名が 加波山(茨城・栃木県境)で挙兵、三島通庸暗殺を目指す 加波山事件を起こした。
加波山事件は、政府軍に追われて 1 週間で鎮圧。挙兵者の 富松正安ら 7 名が 死刑となった。三島自身は無事だったが、明治政府は自由党が 武装革命に向かう危険を察知し、明治 17 年 10 月の 自由党解党につながった。
警視総監として — 大同団結運動の弾圧
明治 18 年(1885 年)、三島は 警視総監に就任(在任 1885-1888)。川路利良(初代大警視、青山霊園 1種イ4号で既登録)の制度を引き継いで警察を統括した。
警視総監時代の三島は、大同団結運動(後藤象二郎・星亨ら民権派の再結集運動)を 保安条例(明治 20 年 12 月)で 東京から追放する処置を主導。これにより民権派の中央運動は一時的に停滞した。
明治 21 年 10 月 23 日、東京で逝去
明治 21 年(1888 年)10 月 23 日、東京で 心臓発作のため急死。享年 53。福島事件の引き金となった会津三方道路・三島街道の建設指揮の激務・心労の蓄積が原因と伝わる。
死後、子爵を追贈され、墓所は青山霊園に営まれた。「鬼県令」と恐れられた男の死は、自由民権派にとっては解放であり、東北地方の近代化を強行した側にとっては惜しみない人物の喪失であった。
親族の著名人
- 長男・三島 弥太郎 — 日本銀行第 8 代総裁(1913-1919 年)・子爵を襲爵。日清戦争・日露戦争・第一次大戦期の日本金融を率いた
- 三島家は薩摩出身の官僚・財界系家系として明治・大正・昭和に複数の人材を送る
逸話・エピソード
「土足で踏みにじってよい」 — 自由民権派への憎悪表現
福島県令時代、三島は自由党員に対して「自由は土足で踏みにじってよい」と公言したと板垣退助・河野広中らが証言している。当時の政府高官の中でも、ここまで露骨に民権思想を蔑視した発言を残した人物は珍しい。福島事件で起訴された河野広中は獄中手記でこの言葉を引用し、戦前・戦後の自由民権運動史で「鬼県令の象徴的暴言」として繰り返し参照されることになった。
三島街道 — 強制労働で開いた東北の幹線道路
山形・福島県令時代、三島は地元住民を「日役(ひやく)」として無償動員し、栗子峠・万世大路・会津三方道路など、それまで馬車も通れなかった山道を一気に近代道路に変えた。労働の過酷さで死者・けが人が続出し、地元では「人柱を積んだ道」と呼ばれた区間もあった。一方で明治 14 年(1881 年)の明治天皇東北巡幸では、整備された道路を御料車が悠々と通り、三島は天皇から賞詞を受けた。「鬼県令」の苛烈さが中央政府からは「能吏」と評価される矛盾を、最も鮮明に示す逸話である。
殴り込んだ自由党員に動じない胆力 — 加波山事件後
加波山事件で挙兵した自由党急進派は栃木県令官舎に殴り込みをかけて三島を暗殺する計画を立てていた。事件鎮圧後、当局の警備強化を周囲が勧めたが、三島は「自分はそんなことで死ぬ男ではない」と一蹴し、護衛も最小限のまま執務を続けたと伝わる。実際、三島が没したのは挙兵から 4 年後の心臓発作で、刺客の凶刃には倒れなかった。
青山霊園に眠る
三島通庸の墓は、青山霊園 1種イ9号12。同じ「1種イ9号」の区画には、伊地知正治(22 側、薩摩・戊辰戦争の名軍師)・山本権兵衛(26 側、海軍大将・首相)・星新一(4 側、SF 作家)などが眠る。
「鬼県令」と恐れられた男が、同じ薩摩の伊地知正治・山本権兵衛ら 薩摩閥の中枢と隣り合って眠る配置は、薩摩閥が明治国家の地方統治・軍事・財政を支配した近代日本の構造を、地形にそのまま刻んでいる。
一方で、三島が弾圧した自由民権運動家・植木枝盛(青山霊園 1種イ11号で既登録、12 側)・中江兆民(1種イ1号で既登録、24 側)らも同じ霊園に眠っており、「弾圧した側」と「弾圧された側」が青山霊園で永遠の隣人となっている事実が、明治日本の政治史を最も雄弁に語る。




