E V E N T

内閣制度発足


太政官制を廃止して内閣制度を創設。伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任、各省大臣が天皇を輔弼する近代的な行政体制が始まった。

初代内閣総理大臣・伊藤博文
初代内閣総理大臣・伊藤博文 Wikimedia Commons / Public domain
日付
カテゴリ
内閣

太政官制から内閣制へ — 近代行政の出発点

明治 18 年(1885 年)12 月 22 日、太政官制を廃止して内閣制度を創設する勅旨が発せられた。同日、初代内閣総理大臣に伊藤博文が任命され、外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の各省大臣からなる第 1 次伊藤博文内閣が発足する。

太政官制は明治新政府が古代律令制を範に整備した行政体系で、太政大臣・左大臣・右大臣・参議を頂点とする合議的な合議制であった。これを廃して、首相が各省大臣を統率し天皇を輔弼する近代的な内閣制度に切り替えたことは、後の大日本帝国憲法発布(明治 22 年)に先立つ行政機構の近代化として、明治国家建設の決定的な一歩だった。

背景 — 岩倉使節団からプロイセン視察へ

内閣制度創設の構想は、明治 4-6 年(1871-73 年)の岩倉使節団に遡る。米欧視察を通じて大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らは、議会と内閣を中心とする西洋型の統治機構が近代国家運営に不可欠であると痛感した。中でもプロイセン宰相ビスマルクとの会見は、後の伊藤の制度設計に決定的な影響を与えた。

明治 10 年代、自由民権運動の高まりを受けて、明治 14 年(1881 年)の政変で「国会開設の詔」が発せられ、明治 23 年(1890 年)の議会開設が約束された。これに先立ち憲法と内閣制度を整える必要があり、伊藤博文は明治 15-16 年(1882-83 年)に再度欧州へ渡る。ベルリンでルドルフ・グナイスト、ウィーンでローレンツ・フォン・シュタインから直接指導を受け、プロイセン型の立憲君主制と内閣制度を日本に移植する構想を固めた。

帰国した伊藤は、明治 17 年(1884 年)に華族令を制定し近代的な貴族制度を整えた後、太政官制改革に着手。明治 18 年 12 月、太政大臣・三条実美ら公家系の元勲を「内大臣」「宮内大臣」などの宮中職へ移し、政府の実権を新設の内閣総理大臣以下の閣僚に集約する大改革を実施した。

第 1 次伊藤博文内閣の顔ぶれ

明治 18 年 12 月 22 日に発足した第 1 次伊藤内閣の閣僚は以下の通り。薩長を中心とする維新元勲の世代が大臣に就任し、若手官僚出身者も多数含まれていた。

役職氏名出身
内閣総理大臣伊藤博文長州
外務大臣井上馨長州
内務大臣山県有朋長州
大蔵大臣松方正義薩摩
陸軍大臣大山巌薩摩
海軍大臣西郷従道薩摩
司法大臣山田顕義長州
文部大臣森有礼薩摩
農商務大臣谷干城土佐
逓信大臣榎本武揚旧幕臣

平均年齢は 40 代半ば、伊藤本人は 44 歳での就任。維新からわずか 17 年で、若き革命家たちが近代国家の閣僚として組閣する構図であった。なお太政大臣だった三条実美は内大臣として宮中に転じ、表向きの最高位を維持する形で改革は穏便に進められた。

歴史的影響

  1. 憲法発布への布石 — 内閣制度は明治 22 年(1889 年)2 月 11 日の大日本帝国憲法発布に直結する制度的前提となった。伊藤は明治 21 年(1888 年)に首相を退任して新設の枢密院議長に就任、自ら憲法草案の審議を主宰した。

  2. 学校令と教育行政の体系化 — 内閣発足の翌明治 19 年(1886 年)、初代文部大臣・森有礼が帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令の四つの学校令を立て続けに発令し、近代日本の学校制度の骨格が確立する。内閣制度は教育・財政・軍事の各分野で同時並行的な近代化を可能にした。

  3. 「超然主義」の伝統 — 内閣は天皇に対して責任を負い、政党には拘束されないという運営原則(超然主義)が、第 2 代黒田清隆内閣の方針演説(明治 22 年)で明示される。政党政治が定着するのは大正期以降で、それまで内閣は元老の合意で組成された。

  4. 元老政治の形成 — 伊藤・山県・松方・井上・黒田・西郷従道ら維新の元勲が、首相退任後も「元老」として後継首相を奏薦する慣行が確立する。憲法に規定のない非公式の最高政治機関として、元老は明治末期から大正前期まで実質的に内閣の生殺与奪を握った。

関連する偉人とその役割

黒田 清隆(第 2 代内閣総理大臣)

薩摩藩出身、戊辰戦争で五稜郭の旧幕府軍を降伏に追い込み、北海道開拓使長官として北海道近代化の基礎を築いた人物。初代伊藤内閣の発足時には農商務大臣を経由しなかったものの、内閣制度創設に立ち会う薩摩閥の重鎮として元老の一角を占めた。明治 21 年(1888 年)4 月、伊藤博文の後を継いで第 2 代内閣総理大臣に就任。在任中の明治 22 年 2 月 11 日に大日本帝国憲法発布の任を担い、翌日には「政府は政党に偏らず超然と進む」と表明し、超然主義の起点を作った。本霊園 1種イ1号9側に眠る。

森 有礼(初代文部大臣)

薩摩藩出身、明治 6 年(1873 年)に明六社を結成して啓蒙思想の普及を主導した人物。第 1 次伊藤博文内閣の発足とともに、新設された文部大臣ポストの初代として就任した。翌明治 19 年(1886 年)、帝国大学令・師範学校令・小学校令・中学校令を立て続けに発令し、近代日本の学校制度を一気に体系化。戦後の学校教育法(昭和 22 年)が施行されるまで約 60 年間、日本の教育を規定する制度的基盤を作り上げた。明治 22 年(1889 年)2 月 11 日、憲法発布の朝に国粋主義者・西野文太郎の凶刃に倒れた。享年 41。本霊園 1種イ1号12側に眠る。

関連する作品

  • 司馬遼太郎『翔ぶが如く』(1972-76 年) — 明治国家建設期の薩摩出身者群像。黒田清隆も登場
  • NHK 大河ドラマ『春の波涛』(1985 年) — 森有礼が主要人物として描かれる
  • 伊藤之雄『伊藤博文』(講談社学術文庫) — 初代総理大臣就任までの政治的歩みを詳述
  • 大久保利謙『明治国家の形成』(吉川弘文館) — 太政官制から内閣制への移行を制度史的に分析

参考資料

← 事件一覧に戻る