来栖 三郎
くるす さぶろう
Kurusu Saburo
日米開戦直前のワシントンで野村吉三郎と最後の交渉に臨んだ特派大使。日独伊三国同盟に署名した外交官でもある。
真珠湾攻撃の直後、ハル・ノートを抱えて国務省を退出した男
来栖三郎は、明治末から昭和戦前期の外交官で、日米開戦の当事者として最も強烈に歴史に名を刻まれた人物の一人である。日独伊三国同盟(1940 年 9 月)に駐独大使として署名した張本人でありながら、その翌年には日米交渉の最後の妥結を求めて特派大使として米国へ送られ、ワシントンで野村吉三郎大使とともにコーデル・ハル国務長官と向き合った。
1941 年 12 月 7 日(現地時間)、来栖と野村は国務省で「対米覚書」(いわゆる最後通牒)をハルに手交した。だがその時すでに、ハワイの真珠湾では日本海軍機動部隊による奇襲攻撃が始まっていた。覚書の手交は攻撃開始から約 1 時間遅れ、結果として日本は「奇襲のうえに通告遅延」という国際的汚名を負った。怒りに震えるハルの面前で、来栖は何も言えずに国務省を退出する — この場面は、近代日本外交が直面した最も苦い瞬間として、戦後も繰り返し語り直されてきた。
戦後の来栖は公職追放となり、外務省にも政界にも復活しなかった。三国同盟と日米交渉、両方の現場に立たされた外交官として、戦争責任を問う声と、開戦回避に最後まで奔走したことを評価する声の両方に挟まれたまま、1954 年に没した。享年 68。
横浜の商家から、米国人妻を持つ職業外交官へ
来栖は明治 19 年(1886 年)、神奈川県横浜市に生まれた。横浜は当時の日本で最大の対外開港地で、来栖は幼少から外国人との接触が日常にある街で育った。東京高等商業学校(現・一橋大学)を卒業後、外務省に入省。語学力と粘り強い交渉力を買われ、欧米諸国への赴任を重ねた。
赴任地の一つペルーで、来栖はアリス・ジェイ・リトルというアメリカ人女性と結婚した。日米関係が緊張へと向かう時代に、米国人を妻に持つ職業外交官 — その立場が後年、彼が「日米開戦の使者」に選ばれる皮肉の伏線になる。来栖はベルギー大使、ドイツ大使を歴任し、外務省内の独・伊枢軸関係の実務派として知られる存在になっていった。
三国同盟への署名 — ベルリンの来栖
昭和 15 年(1940 年)9 月 27 日、ベルリン。日独伊三国同盟が締結された。日本側の署名者は、駐独大使・来栖三郎である。相手は、ナチス・ドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ、イタリアの駐独大使ディーノ・アルフィエーリ。
三国同盟は、当時の松岡洋右外相が推進した枢軸外交の頂点であり、米英との対立を決定的にする一手であった。来栖は外務省の訓令に従って職務を遂行した職業外交官として署名したのであり、政策決定の主体ではない。しかし戦後、この一署名は来栖の生涯を規定する負荷となる。同盟締結の翌年には独ソ戦が始まり、その翌年には日米開戦 — 三国同盟は、日本を世界戦争へ引きずり込む扉となった。
日米交渉特派 — 野村吉三郎との二人体制
昭和 16 年(1941 年)11 月、来栖は特派大使としてワシントンへ派遣された。すでに駐米大使として日米交渉を続けていた野村吉三郎海軍大将を補佐し、日米妥結の最後の可能性を探るためである。来栖が選ばれた理由は明確で、英語力・米国事情への通暁・米国人妻を通じた人脈 — 戦争回避に賭けるなら来栖を出すしかない、という外務省の判断だった。
しかし、11 月 26 日にハル国務長官から提示された「ハル・ノート」(中国・仏印からの全面撤退、三国同盟の事実上の無効化等を求める内容)は、日本側にとって受諾不可能な内容だった。東京の御前会議は 12 月 1 日に開戦を決定。来栖と野村は、本国の決定を知らされぬまま、なお交渉継続のポーズを取り続けることになる。
12 月 7 日(米国時間)午後、両大使は対米覚書をハルに手交した。だが本来午後 1 時に手交すべき書類は、暗号解読・タイプの遅れで約 1 時間遅延。その間に真珠湾攻撃は始まっていた。「奇襲のうえに通告遅延」 — この事実は、戦後の極東国際軍事裁判でも繰り返し問われることになる。来栖と野村は交換船で帰国し、戦時下の日本でひっそりと暮らした。
病に伏して、戦後の沈黙のなかで
戦後、来栖は公職追放を受けて表舞台から姿を消した。三国同盟への署名と日米交渉決裂の当事者として、戦争責任を問う声に晒され続けた。一方で、開戦回避のために最後まで奔走した職業外交官としての評価も、戦後の歴史研究のなかで徐々に取り戻されていく。
昭和 29 年(1954 年)4 月 7 日、東京で死去。享年 68。一人息子の良(りょう)は陸軍航空隊の戦闘機パイロットとして昭和 20 年(1945 年)2 月に戦死しており、戦争は来栖の家族にも深い傷を残していた。米国人妻アリスは戦中・戦後を日本で耐え抜き、夫を看取った。
青山霊園に眠る
来栖三郎の墓は、青山霊園 1種イ4号30側。
青山霊園には、明治・大正・昭和を貫いて日本外交を支えた人物が数多く眠っている。日露講和を担った小村寿太郎、ワシントン軍縮会議を支えた幣原系統の外交官たち、そして来栖と同じく日米開戦時の外相を務めた東郷茂徳。三国同盟を推進した松岡洋右もここに眠る。
維新後の日本外交が、開国・条約改正・日露講和・国際協調・三国同盟・日米開戦・敗戦・占領 — その全行程を歩んだ証人たちの墓が、青山霊園の一画に集まっている。来栖三郎の墓は、その近代日本外交の最後の局面を静かに伝える一基である。




