フレデリック・イーストレイク
ふれでりっく・いーすとれいく
Frederick Warrington Eastlake
23 か国語を操った米国人英語教育者・お雇い外国人。慶應義塾で英文学を教え、国民英学会を創設、明治英語教育の先駆者となった「博言博士」。
23 か国語を操った「博言博士」
フレデリック・ウォーリントン・イーストレイクは、明治期の日本に来日した米国人英語教育者・著述家で、慶應義塾・東京高等商業学校などで英語・英文学を教え、明治21年(1888年)に私立学校「国民英学会」を創設した、明治英語教育の先駆者の一人である。
23 か国語を操ったとされ「博言博士(Doctor of Many Languages)」と呼ばれた。父・ウィリアム・クラーク・イーストレイクも宣教師・教育者として日本で活動した人物で、フレデリックは父に従って若年期から日本との縁を持っていた。日本人女性・太田なをみと結婚し、東郷(とうごう)を日本名として名乗ったとも伝わる。
英和辞典の翻訳協力、英文法教科書の執筆など、明治の英語教育の基盤整備に貢献。明治38年(1905年)2月18日、東京で病没。青山霊園の外国人墓地区域に葬られた。
父子で日本に来た米国人
1856年(安政3年)、米国で生まれる(出生地・正確な月日は不詳)。父・ウィリアム・クラーク・イーストレイク(William Clark Eastlake)はオランダ改革派教会系の宣教師・教育者で、明治初期に来日して横浜・東京で英語と西洋学を教えた人物である。
フレデリックは少年期に父と日本に滞在した時期があり、明治17年(1884年)、28歳で本格的に日本に再来日した。
慶應義塾の英文学講師として
明治19年(1886年)から慶應義塾で外国人英文学講師として教鞭を取る。福澤諭吉が主宰する慶應義塾は、明治日本における英学・英語教育の最重要拠点で、イーストレイクはここで西洋古典・英米文学の体系的講義を担当した。
並行して東京高等商業学校(現・一橋大学)、第一高等学校でも英語講師として招かれ、明治英語教育の最前線で活動した。彼の英文法解釈・発音指導は、当時の日本人英語教師たちに大きな影響を与えた。
国民英学会を創設 — 23 か国語の語学者
明治21年(1888年)、神田に私立学校「国民英学会」を創設(現存はしない)。一般市民・社会人を対象に英語・英会話を教える夜学スタイルの学校で、当時としては先進的な試みだった。明治後期、英語学習熱が高まる中で広く利用された。
イーストレイクは並はずれた語学の才能で知られ、英語・ドイツ語・フランス語・ラテン語・ギリシャ語・ロシア語・サンスクリット・中国語・日本語など、計23か国語を読み書きできたとされる。これにより「博言博士(Doctor of Many Languages)」と呼ばれた。
明治期の代表的な英和辞書『新訳英和辞典』の翻訳協力、英文法教科書『The Eastlake’s English Grammar』の執筆など、辞書編纂・教科書執筆の現場でも活躍した。
日本人女性との結婚
イーストレイクは日本人女性・太田なをみ(旧士族の家系)と結婚し、東京で家庭を持った。日本名「東郷(とうごう)」を名乗ったとも伝わる(史料は限定的)。
長男ロランド・パスカル・イーストレイク(Roland Pascal Eastlake, 1888-1954)も、後に慶應義塾で英語を教えるなど、教育者の家系として日本に根付いた。
明治38年2月、東京で病没
明治38年(1905年)2月18日、東京で病没。享年49。葬儀はキリスト教式で営まれ、遺骸は青山霊園の外国人墓地区域に葬られた。墓碑には英語で「Frederick Warrington Eastlake, Ph.D.」と刻まれている。
逸話・エピソード
23 か国語の検証 — サンスクリットからアイヌ語まで
「博言博士」の異名は単なる宣伝ではなかったとされる。慶應義塾の同僚教師たちが半信半疑で試したという挿話があり、英・独・仏・伊・西・露・希・羅といった欧州系から、サンスクリット・ヘブライ・アラビア・中国・日本・朝鮮、さらにアイヌ語の単語まで提示しても、文脈に応じた正確な発音と意味を返したという。本人はこれを誇示せず「言葉は窓だ。一つ覚えると一つ世界が開く」とだけ語ったと伝えられる。
「東郷」と名乗った米国人
日本人女性・太田なをみと結婚した後、イーストレイクは日本名「東郷(とうごう)」を名乗ったと伝わる。日露戦争で東郷平八郎の名が広まる以前のことで、なをみの旧姓由来とも、自身が選んだ姓ともされる。慶應義塾の出席簿には英語名で残るが、家庭内・近隣付き合いでは「東郷先生」と呼ばれていたという。日本に骨を埋める覚悟を、姓そのものに込めた米国人だった。
青山霊園に眠る
イーストレイクの墓は、青山霊園の外国人墓地区域にある。同じ青山霊園には、お雇い外国人として、キヨッソーネ(イタリア・印刷)、フルベッキ(オランダ→米国・宣教師教育者)、ワグネル(ドイツ・化学・窯業)、ジョセフ・ヒコ(米国・新聞)、デュ・ブスケ(フランス・軍事顧問)らが眠り、明治国家を支えた多国籍の頭脳が一画に集まっている。
23か国語を操った「博言博士」が、49歳の若さで東京に骨を埋めた人生 — イーストレイクの墓所は、明治英語教育がどのような外国人講師に支えられて立ち上がったか、その静かな証言である。





