アルベール・シャルル・デュ・ブスケ
あるべーる・しゃるる・でゅ・ぶすけ
Albert Charles Du Bousquet
幕府フランス軍事顧問団から明治政府お雇い外国人へ。100以上の法律・軍事資料を翻訳し、明治初期の制度設計を支えたフランス人軍人。
幕末フランス軍人 — 明治日本に骨を埋めた男
アルベール・シャルル・デュ・ブスケは、幕末に幕府のフランス軍事顧問団の一員として来日し、維新後は明治政府のお雇い外国人として法制翻訳・条約交渉に従事、日本人女性と結婚して東京に骨を埋めたフランス人である。
フランス人の両親の元にベルギーで生まれ、フランス陸軍兵学校を卒業して軍人となる。慶応3年(1867年)、ジャン・シャノワーヌ大尉率いる幕府軍事顧問団(シャノワーヌ・ミッション)の一員として来日し、幕府陸軍の近代化教練を担当した。幕府崩壊後、団は解散・帰国するが、デュ・ブスケは日本に残留してフランス公使館の通訳を務め、明治3年(1870年)に兵部省兵式顧問、翌年に左院(元老院の前身)翻訳官として明治政府に雇われた。
100以上のフランスの法律・軍事資料を翻訳し、元老院の国憲起草資料、条約改正交渉、軍制改革に深く関与。明治9年(1876年)に田中花子と結婚、3子をもうけた。明治10年(1877年)に政府との契約が満期となった後も日本に留まり、東京駐在のフランス領事を務めて明治15年(1882年)、東京で病没した。享年45。
ベルギー生まれのフランス軍人
天保8年(1837年)3月25日、ベルギーで生まれる。両親はフランス人で、本人はフランス国籍。サンシール陸軍士官学校を卒業し、フランス陸軍に任官した。
1860年代のフランスはナポレオン3世の第二帝政期で、メキシコ出兵・インドシナ進出など、フランスは世界各地に軍事顧問を派遣していた。日本もその対象国の一つとなる。
慶応3年 — シャノワーヌ・ミッションで来日
慶応3年(1867年)1月、フランス陸軍大尉ジャン・シャノワーヌを団長とする15名のフランス軍事顧問団が横浜に到着。幕府陸軍の近代化(フランス式の歩兵・砲兵・工兵編成、士官教育、装備統一)を目的とする最後の幕末軍制改革を支える使節であった。
デュ・ブスケは中尉・通訳官として同団に加わり、横浜・江戸で幕府の伝習隊・歩兵隊の教練を担当した。慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れ、シャノワーヌ・ブリュネら一部は榎本武揚と共に蝦夷地に渡るが、デュ・ブスケは江戸に留まる道を選んだ。
明治政府に雇われる — 法制翻訳と通訳
維新後、デュ・ブスケはフランス公使館の通訳官として明治新政府との連絡に当たり、抜群の日本語能力で明治政府にも評価される。明治3年(1870年)、兵部省兵式顧問に正式に雇われ、翌明治4年(1871年)に左院(元老院の前身、立法調査機関)の翻訳官に転じた。
ここでデュ・ブスケが手掛けた仕事は、明治日本の制度設計に深く食い込んでいる:
- フランスの民法・刑法・商法・治安維持法など、100以上の法律資料を日本語に翻訳
- 元老院での国憲(憲法草案)起草資料の翻訳と注釈
- 条約改正交渉でフランス側の法的論理を分析、明治政府に助言
- 軍制改革でフランス陸軍制度の解説・移植案提示
明治日本の法制度がドイツ式に最終的に統一されていく前の、フランス法の影響期(明治初期)を実質的に支えたお雇い外国人の一人である。
日本人女性との結婚 — 「日本に骨を埋めた」フランス人
明治9年(1876年)、デュ・ブスケは日本人女性・田中花子と結婚。3子をもうけた。お雇い外国人の中で日本人と結婚し、家族を持って永住した例は少なく、彼の日本への愛着は当時から知られていた。
明治10年(1877年)、政府との雇用契約が満期となるが、フランスに帰国せず、東京駐在のフランス領事に就任して日本に残った。「私はもう日本人だ」と語ったと、当時の証言にある。
明治15年6月、東京で病没
明治15年(1882年)6月18日、東京で病没。享年45。日本政府は彼の功績を讃え、勲三等旭日中綬章を追贈した。葬儀はフランス公使館主催で営まれ、青山霊園の外国人墓地区域に葬られた。
田中花子と3子は、彼の死後も日本で暮らし、子孫は日仏混血の家系として明治・大正の東京に根付いた。
逸話・エピソード
「私はもう日本人だ」
明治 10 年(1877 年)、政府との雇用契約満期を迎えたデュ・ブスケに対し、フランス本国は帰国を促した。当時のお雇い外国人としては破格の高給だったため、本国でも相応の処遇が約束されていたとされる。しかしデュ・ブスケは「私はもう日本人だ。妻も子も日本にいる。骨を埋める場所はここしかない」と語って残留を決めたと伝わる。フランス領事の職を引き受けたのは、フランス国籍を残しつつ日本に居続けるための実務的な選択だった。45 歳で病没するまで、彼は東京を離れなかった。
100 冊の翻訳と妻・花子の手伝い
元老院の翻訳官として 100 を超える法律資料を日本語に置き換える作業は、フランス語に堪能なお雇い外国人一人では到底こなせない仕事だった。デュ・ブスケが下訳を作り、日本側の翻訳官と擦り合わせる中で、妻・田中花子が原稿の清書を手伝ったとされる。花子は士族の娘で漢字・候文に通じており、夫が組み立てた直訳調の日本語を、明治の法令文体に近い形に整える役割を果たしたと伝えられる。日仏混血の家庭は、近代日本の法制史にも静かに痕跡を残した。
青山霊園に眠る
デュ・ブスケの墓は、青山霊園 1種ロ7号近辺の外国人墓地区域にある。同じ青山霊園には、お雇い外国人のキヨッソーネ(イタリア)・フルベッキ(オランダ→米国)・ワグネル(ドイツ)・ジョセフ・ヒコ(米国)らが眠り、明治国家を支えた多国籍の頭脳が一画に集まる。
フランス軍人として日本に来て、日本人と結婚し、東京で骨を埋めた45年の生涯 — デュ・ブスケの墓所は、近代日本が世界とどうつながって始まったか、その最も人間的な側面を伝えている。




