エドアルド・キヨッソーネ
えどあるど・きよっそーね
Edoardo Chiossone
イタリア人版画家・お雇い外国人。大蔵省紙幣局に 16 年勤務して日本初の近代紙幣・切手を製作。西郷隆盛・明治天皇の御真影など多くの肖像画も遺した。
「明治の紙幣・切手・御真影」を作ったイタリア人版画家
エドアルド・キヨッソーネは、明治 8 年(1875 年)に来日し、大蔵省紙幣局で 16 年間にわたって 日本初の近代紙幣・切手の彫刻を担当したイタリア人版画家である。500 点以上の銅版を製作、日本の 紙幣印刷技術の基礎を一人で築き上げた。
キヨッソーネの仕事として広く知られるのは:
- 日本銀行券の原版彫刻(肖像入り紙幣の基礎)
- 日本初の近代切手シリーズ(明治期の小判切手)
- 明治天皇の御真影(明治 21 年/1888 年)の原画 — 撮影禁止だった明治天皇の肖像を、宮中の侍従からの聞き取りでキヨッソーネが描いた一枚は、戦前の学校・官公庁に飾られた明治天皇のイメージそのものとなる
- 西郷隆盛の肖像画(西郷の弟・従道、従兄弟・大山巌の顔を参考に合成して描いたもの) — 西郷本人の写真が一枚も残っていない中、現在も「西郷隆盛」として広く知られる顔は、キヨッソーネが描いた肖像である
「写真が普及する前の明治日本の視覚」を作り上げた最大の功労者の一人。お雇い外国人として最も長く日本に滞在し(没年まで 23 年)、最終的に 青山霊園に埋葬された。
サルデーニャ王国のアレンツァーノで生まれ、ジェノヴァ・ローマで修行
1833 年 1 月 21 日、サルデーニャ王国アレンツァーノ(現・イタリア・ジェノヴァ近郊)で生まれる。父は地方の商人。少年期から 絵画・版画の才能を示し、ジェノヴァのリーグレ美術アカデミーで学んだ。
イタリア半島がリソルジメント(国民国家統一運動)を経てイタリア王国となる激動期、キヨッソーネは ローマの聖カエキリア音楽アカデミー附属版画工房などで修行を積み、ヨーロッパで版画家・銀行券彫刻師として頭角を現した。ドイツ・フランクフルトの紙幣印刷会社に勤務していた時期、日本政府からのお雇い外国人募集に応募する。
明治 8 年、紙幣寮(後の紙幣局)に来日
明治 8 年(1875 年)1 月、42 歳で 大蔵省紙幣寮(後の紙幣局・印刷局)技師として来日。月給 454 円(当時の高給。同時代の 首相級)という破格の待遇であった。
日本側がキヨッソーネに期待したのは、偽造困難な近代的紙幣の彫刻技術の移植。それまでの日本の紙幣(明治初期の太政官札・国立銀行紙幣など)は技術的に未熟で、偽造が頻発していた。キヨッソーネは欧州の精密銅版画技法を持ち込み、紙幣の偽造を物理的に困難にする版画技術を日本に定着させた。
紙幣局でのキヨッソーネの主な作品:
- 明治通宝シリーズの改良
- 国立銀行兌換券(明治 14 年/1881 年以降の改券)
- 日本銀行兌換銀券(明治 18 年/1885 年、大黒像の有名な紙幣)— ただし大黒像は別のデザイナーが下絵を描いた
- 改造紙幣(明治 22 年/1889 年以降、神功皇后像など)
切手 — 日本郵便の図案を確立
紙幣と並ぶキヨッソーネの大仕事は、普通切手の彫刻である。明治 9-10 年代の 小判切手シリーズ(2 銭・5 銭・10 銭などの基本料金切手)はキヨッソーネが原版を彫刻し、日本郵便の視覚的アイデンティティを確立した。
切手の細密な彫刻技術は、後の 日本の切手図案の伝統(エンタル文字・繊細な彫り・伝統美術モチーフ)の根幹となった。
「西郷隆盛」と「明治天皇御真影」
キヨッソーネの作品で最も国民的に知られているのは、紙幣ではなく 肖像画である。
西郷隆盛の肖像(明治 16 年/1883 年)
西郷隆盛(明治 10 年/1877 年、西南戦争で自刃)は、生前 写真嫌いで、本人の確実な肖像写真が一枚も残らなかった。明治政府は西郷の名誉回復(明治 22 年/1889 年大赦)に合わせて、「西郷の顔」を視覚化する必要に迫られた。
キヨッソーネは、西郷の弟 西郷従道(海軍大将)・従兄弟 大山巌(陸軍元帥)・薩摩出身の旧友数名を参考にし、合成肖像として「西郷隆盛」を描いた。この肖像が 西南戦争の敗将を国民的英雄に再生するイメージの原点となり、後の上野公園の 高村光雲・後藤貞行作の西郷銅像(1898 年除幕)にも反映された。
明治天皇御真影(明治 21 年/1888 年)
明治天皇は写真撮影に消極的で、宮中での写真撮影は限定的だった。明治政府は 学校・官庁・在外公館に天皇の肖像を掲げる必要があり、キヨッソーネに御真影の原画作成を依頼。
キヨッソーネは 宮中で明治天皇を一度だけ実見することを許され、その後 宮内省侍従からの聞き取りで詳細を補い、軍服姿の明治天皇の 公式肖像を完成させた。明治 21 年(1888 年)以後、戦前のすべての学校・官庁に飾られた明治天皇の絵姿は、このキヨッソーネ原画を写真化したものである。
宮内省はキヨッソーネに 慰労金 2,500 円を授与(当時の物価で総理大臣の年俸数年分相当)。
明治 24 年、紙幣局退職と東京での晩年
明治 24 年(1891 年)、16 年の勤務を終えて紙幣局退職。勲三等旭日中綬章を授与され、明治政府が高く評価したお雇い外国人の一人となった。
退職後は東京・芝の自邸で版画家として制作を続け、日本人画家にも 銅版画・メゾチント・アクアチントなどの技法を伝授した。渡辺崋山・狩野芳崖ら日本人画家の肖像も描いている。
明治 31 年 4 月 11 日、東京で逝去
明治 31 年(1898 年)4 月 11 日、東京・芝の自邸で 腎臓病のため死去。享年 65。
キヨッソーネはイタリアから日本に渡って 生涯独身で過ごし、子孫はない。彼の 遺品・コレクション(浮世絵・甲冑・刀剣・絵画など、約 1 万 5,000 点)はジェノヴァ市に遺贈され、現在も 「ジェノヴァ東洋美術館(エドアルド・キヨッソーネ東洋美術館)」として公開されている。日伊文化交流の最も重要な施設の一つ。
逸話・エピソード
浮世絵コレクター — 給料の半分を画商に
紙幣局からの破格の給料の使い道で、キヨッソーネが選んだのは日本美術の収集だった。葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重らの浮世絵、刀剣・甲冑・陶磁器・絵画 — 16 年の在日期間で集めた点数は 1 万 5,000 点を超え、東京・芝の自邸はまさに私設美術館の様相を呈した。日本人画商が「外国人で本物を見抜ける目を持つのはこの人だけ」と評したと伝わる。死後、コレクションは遺言により故郷ジェノヴァ市に寄贈され、現在のジェノヴァ東洋美術館の核となった。
西郷の顔を「見たことのない」男が描いた皮肉
西郷隆盛は生前から写真嫌いで、本人を撮影した一枚も残されなかった。明治政府が「西郷の顔」を視覚化する必要に迫られた時、依頼されたのは — 一度も西郷に会ったことのないイタリア人版画家だった。キヨッソーネは弟・従道と従兄弟・大山巌の顔を合成し、薩摩出身者からの聞き取りで補い、「西郷隆盛」の像を一枚の銅版に彫り上げた。今日、上野公園の銅像から教科書の挿絵まで、日本人が頭に浮かべる西郷の顔は、この一度も西郷に会わなかった外国人の想像が原型である。
生涯独身、ピアノと猫
キヨッソーネは生涯独身で、芝の自邸では数匹の猫と暮らしていたと伝わる。ピアノを弾き、版画制作の合間にイタリア歌曲を口ずさむ姿が日本人助手たちに目撃されている。日本人女性との縁談もあったとされるが、本人は「私には版画と日本の美術品だけで十分だ」と笑ったという。65 歳で死去するまで、東京・芝の自邸が生活と仕事の全てだった。
青山霊園に眠る
キヨッソーネの墓は、青山霊園の 外国人区画にある。墓石にはアルファベットで “Edoardo Chiossone” と刻まれている。
「明治天皇と西郷隆盛の顔を、ヨーロッパ人版画家が描いた」 — この事実そのものが、明治日本の視覚文化が 国際的なコラボレーションで成立していたことを物語る。日本の紙幣・切手・公式肖像画を一手に作り上げた男が、自分が描いた明治天皇の眠る首都・東京の青山霊園に永眠している配置は、日伊文化史を地形に刻む象徴的なものとなった。




