木村 兵太郎 (1888-1948)の肖像
木村兵太郎(陸軍大将) Wikimedia Commons / Public Domain
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木村 兵太郎

きむら へいたろう

Kimura Heitaro

太平洋戦争末期のビルマ方面軍司令官。陸軍次官・関東軍参謀長を歴任、東京裁判で A 級戦犯として死刑判決を受けた陸軍大将。

生没年
出身地
東京府(本籍は埼玉県)
死没地
東京・巣鴨拘置所(絞首刑執行)
時代
大正・昭和
役職
陸軍大将
出身校
陸軍士官学校(20期) / 陸軍大学校(28期)
区画
1種イ4号1側(立山墓地)
タグ
陸軍大将 / ビルマ方面軍 / 関東軍 / 東京裁判 / A級戦犯

ビルマ方面軍司令官 — そして A 級戦犯

木村兵太郎は、太平洋戦争末期の陸軍ビルマ方面軍司令官として、退却戦の中で連合軍と相対した陸軍大将である。明治21年(1888年)9月28日、東京府で生まれる(本籍は埼玉県)。陸軍士官学校20期、陸軍大学校28期を経て、砲兵畑の士官として階段を上り、昭和16年(1941年)、陸軍次官として東條英機陸相を支えた。

昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官として現地着任。インパール作戦失敗後の劣勢な戦線で指揮を取り、敗戦時にはタイ国境近くで部隊を再編成中だった。戦後、東京裁判(極東国際軍事裁判)で平和に対する罪・通常の戦争犯罪・人道に対する罪で起訴され、昭和23年(1948年)11月12日に死刑判決。同年12月23日、巣鴨拘置所で絞首刑が執行された。享年60。

木村は東京裁判で死刑判決を受けたいわゆる「A級戦犯」7名の一人であり、東條英機・板垣征四郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅と共に処刑された。

砲兵士官の階段

明治21年(1888年)9月28日、東京府で生まれる。本籍は埼玉県。陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校(20期、1908年卒業)を経て、砲兵将校として任官した。

第一次世界大戦中の大正7年(1918年)、陸軍大学校(28期、首席に近い成績)を卒業。以後、陸軍参謀本部・陸軍省・在外武官などを歴任し、砲兵畑の俊才として高い評価を得ていく。昭和11年(1936年)、関東軍参謀副長としてジュネーブ軍縮会議に随員として参加、欧州事情にも通じた珍しい砲兵将校だった。

陸軍次官 — 東條陸相のもとで

昭和14年(1939年)、関東軍参謀長就任。昭和16年(1941年)4月、東條英機陸相のもとで陸軍次官に就任、日米開戦前夜の陸軍中央で実務を取り仕切る位置についた。同年12月の日米開戦時には次官として開戦詔書の発布過程に関わった。

昭和18年(1943年)3月、陸軍大将に進級。同年中に陸軍次官を退き、軍事参議官として大本営の要職を経た。

ビルマ方面軍司令官 — 退却戦の中で

昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官として現地着任。前任の河辺正三大将が指揮したインパール作戦が同年7月に失敗、3万人以上の日本兵が餓死・戦病死したばかりだった。木村は退却して再編成にあたる任務を引き継ぐ。

しかし戦況は悪化の一途で、昭和20年(1945年)に入ると英印軍のラングーン進攻でビルマ南部が陥落。木村方面軍司令部は5月にラングーンを放棄、シッタンに撤退してタイ国境近くで部隊再編成を続けた。同年8月15日の終戦時、現地でラングーン放棄を巡る指揮の是非が問われることになる。

東京裁判 — A 級戦犯としての死刑

昭和21年(1946年)5月、東京裁判の被告として起訴される。罪状は平和に対する罪(対英米開戦の共同謀議)、通常の戦争犯罪、人道に対する罪(連合軍捕虜の不当待遇 — 泰緬鉄道建設での捕虜虐待がビルマ方面軍司令官の責任として問われた)。

昭和23年(1948年)11月12日、死刑判決。木村は法廷で罪状を否認し続けた。同年12月23日午前0時、東條英機・板垣征四郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅と共に、巣鴨拘置所で絞首刑が執行された。享年60。

死後、遺骨は遺族に返還されず、太平洋上に散骨された。一部の遺骨は後に殉国七士廟(愛知県三ヶ根山)に合祀され、また東京裁判 A級戦犯として靖国神社に合祀された(1978年)。

逸話・エピソード

「沈黙の被告」 — 法廷で最も語らなかった A 級戦犯

東京裁判で死刑判決を受けた A 級戦犯 7 名のうち、木村は最も発言が少なかった被告として記録されている。法廷では弁護人の質問にも最小限の答えしか返さず、自己弁明・他者批判を一切せず、終始無表情を貫いた。「沈黙の被告」と海外記者団から呼ばれた。後年、家族に「軍人は判決を受け入れる、それだけだ」と短く語ったと伝わる。砲兵畑の几帳面な実務将校の気質が、最期まで彼の姿勢を貫いていた。

ラングーン放棄の判断 — 戦後最大の論点

昭和 20 年(1945 年)5 月、英印軍の進攻でラングーン放棄を決断した際、木村は司令部の幹部とともに北方へ撤退した。この判断は戦後「現地住民・残留邦人を見捨てた」として東京裁判でも追及されたが、木村は「軍司令官として残存兵力の保全を優先した、それが指揮官の責務だった」と一貫して主張した。退却戦の指揮官として現実的判断を下したのか、責任を回避したのか — 評価は今も分かれ、現代の戦史研究でも論争が続いている。

「家族には何も残せなかった」 — 最期の手紙

絞首刑執行前夜、木村は妻と娘に宛てた手紙を遺した。短い文面の中で「軍人として生きた以上、覚悟はしている。家族には何も残せなかったことを詫びる」とのみ書かれていたと伝わる。財産も名誉も失い、A 級戦犯として歴史の被告となった男の、ごく私的な最期の言葉だった。遺骨は遺族にも返されず、太平洋に散骨された後、一部が殉国七士廟に合祀された。

青山霊園(立山墓地)に眠る

木村兵太郎の墓は、青山霊園 1種イ4号1側の立山墓地区画にある。「立山墓地」は青山霊園の附属区画として位置づけられ、永田鉄山相楽総三など、近代軍人・志士の墓もこの一画に集まっている。

東京裁判で死刑判決を受けた A 級戦犯の墓が、明治国家を作った人々のすぐ近くに静かに置かれている — 木村兵太郎の墓所は、近代日本がどのように戦争に至り、どのように戦後をくぐり抜けたかを、最も重い形で示す場所の一つである。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

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参考資料

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