小磯 国昭 (1880-1950)の肖像
小磯 国昭の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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小磯 国昭

こいそ くにあき

Koiso Kuniaki

第41代内閣総理大臣・陸軍大将。「朝鮮の虎」と呼ばれた朝鮮総督。本土決戦準備内閣を率いて終戦直前に総辞職、A 級戦犯として巣鴨で病没。

生没年
出身地
栃木県宇都宮市
死没地
東京(巣鴨拘置所、終身刑服役中に病死)
時代
明治・昭和
役職
内閣総理大臣
出身校
陸軍士官学校 / 陸軍大学校
区画
1種ロ8号33側
タグ
内閣総理大臣 / 陸軍大将 / 朝鮮総督 / A級戦犯 / 巣鴨拘置所

「朝鮮の虎」 — 第41代内閣総理大臣

小磯国昭は、昭和 19 年(1944 年)7 月から翌 20 年 4 月まで 第 41 代内閣総理大臣を務めた陸軍大将である。サイパン陥落で東条英機内閣が崩壊した直後、本土決戦準備と和平模索を同時に背負って登板した、太平洋戦争最末期の首相。

朝鮮総督として 4 年(1942-1944)を務め、半島の動員と統治に当たった経歴から 「朝鮮の虎」と呼ばれた。眼光鋭く、長身、近衛文麿らとは対照的な軍人然とした風貌で知られた。

しかし首相としては、米軍の沖縄上陸(1945 年 4 月)を直前に総辞職、鈴木貫太郎内閣に終戦の重い役割を譲ることになる。戦後は A 級戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁固刑を受け、巣鴨拘置所で食道がんに侵されて死去した。

栃木の医者の家から、陸軍へ

明治 13 年(1880 年)3 月 22 日、栃木県宇都宮市に生まれる。父・小磯進は医師、養父は陸軍少将・小磯松三郎。山形県米沢の小磯家は会津の旧家とつながり、養家は代々軍人の家柄であった。

宇都宮中学(現・宇都宮高校)を経て、明治 33 年(1900 年)、陸軍士官学校(12 期)を卒業。歩兵少尉として日露戦争(明治 37-38 年)に出征し、奉天会戦などを戦った。

明治 43 年(1910 年)、陸軍大学校(22 期)を恩賜の軍刀組で卒業(成績優等)。以後、陸軍中央のエリート将校コースを歩み、関東軍参謀長・陸軍次官・朝鮮軍司令官などを歴任。「陸軍の実務派」として頭角を現した。

朝鮮総督として 4 年(1942-1944)

昭和 17 年(1942 年)5 月、小磯は 第 8 代朝鮮総督に就任。米英との戦争が拡大する中、半島の戦時動員(徴兵制施行・志願兵制度・労務動員)を統括する立場となった。

「創氏改名」「皇民化政策」などは前任の南次郎総督期に始まっていたが、戦時下で深化・徹底させたのが小磯時代であった。半島の経済資源・労働力を本土の戦争遂行に振り向ける一方、戦況悪化に伴って民間人の徴用が苛酷化していった。

朝鮮人からは「朝鮮の虎」と恐れられたこの時代の経験は、後の極東国際軍事裁判で重く問われることになる。

第 41 代総理大臣 — 大命降下から総辞職まで

昭和 19 年(1944 年)7 月 18 日、サイパン島陥落の翌々日に東条英機内閣が総辞職。重臣会議は次期首相を物色し、海軍出身の 米内光政と陸軍出身の 小磯国昭による「陸海一体」の挙国一致内閣を構成することを決定。同年 7 月 22 日、小磯国昭内閣が成立した。

小磯首相の任務は 「戦争完遂のための体制強化」と表向きは謳われたが、実態は 本土決戦準備と並行した和平模索であった。重慶ルートを使った対華工作(繆斌工作)を試みたが、軍部・外務省の不協和音で頓挫。レイテ戦・硫黄島戦・東京大空襲・沖縄上陸を経て、戦況は悪化の一途を辿った。

昭和 20 年(1945 年)4 月 7 日、米軍の沖縄上陸を受けて 小磯内閣総辞職。後継は鈴木貫太郎内閣となり、終戦の重い決断はそこで下された。在任 8 カ月余、日本史上最も困難な時期に登板した首相の一人となった。

A 級戦犯、巣鴨で病没

戦後の昭和 20 年(1945 年)12 月、小磯は GHQ により A 級戦犯容疑で逮捕。極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられ、昭和 23 年(1948 年)11 月、終身禁固刑の判決を受けた。

朝鮮総督時代の動員政策・首相期の戦争遂行責任の両方が問われた。判決後は 巣鴨拘置所で服役。在監中に食道がんを発症し、昭和 25 年(1950 年)11 月 3 日、東京拘置所病棟で死去。享年 70。終身刑のまま獄死した A 級戦犯の最初の一人となった。

親族の著名人

逸話・エピソード

「朝鮮の虎」 — 長身と鋭い眼光

身長 180 cm 近い長身に痩躯、剃り上げた頭部と鋭い眼光で、軍人らしい威圧感を備えた風貌だった。朝鮮総督時代に「朝鮮の虎」と呼ばれたのは、施政の苛烈さに加えてこの外見の印象も大きかったと伝わる。閣議や軍議の場でも沈黙して相手を凝視する癖があり、近衛文麿のような優雅な公家系首相とは対照的な「武の宰相」として国民に映った。

繆斌(みょうひん)工作 — 重慶との和平を独断で試みた首相

首相在任中、小磯は中国・重慶国民政府との和平ルートとして繆斌(汪兆銘政権高官)を東京に呼び寄せ、独自の和平工作を進めようとした。しかし重光葵外相・梅津美治郎参謀総長らは「繆斌は信用できない」と猛反対。昭和 20 年(1945 年)4 月、御前会議で和平工作中止が決定された直後に、小磯は内閣を投げ出して総辞職した。「総理大臣が外務省を出し抜いて和平工作を仕掛けた」前代未聞の事件として、戦後の昭和史研究で繰り返し検証されている。

巣鴨拘置所での「もう一度総理になりたい」

A 級戦犯として終身禁固刑となった小磯は、巣鴨拘置所で同じ A 級戦犯の重臣たちと過ごした。獄中で食道がんが進行する中、見舞いに訪れた知人に「健康ならもう一度総理をやって戦争を終わらせたかった」と漏らしたと伝わる。終戦の重い役割を鈴木貫太郎に譲った無念さを、最期まで抱え続けた末の言葉である。

青山霊園に眠る

小磯国昭の墓は、青山霊園 1種ロ8号33側。同じ「1種ロ8号」の区画には、犬養毅浜口雄幸井上準之助加藤高明牧野伸顕など、昭和初期の政党政治家・経世会系の政治家たちが並ぶ。テロや暗殺・敗戦のあとを引き受けた小磯が、暴力で倒れた先輩政治家たちと同じ区画に眠る配置となった。

A 級戦犯として処刑こそ免れたものの、巣鴨で病没した小磯の墓は、太平洋戦争終結期の日本政治の重さを今も静かに証言している。

墓参り写真

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