高峰 譲吉 (1854-1922)の肖像
高峰 譲吉の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

高峰 譲吉

たかみね じょうきち

Takamine Jokichi

タカジアスターゼを発明し、世界で初めてアドレナリンの結晶単離に成功した応用化学者。近代日本の製薬産業の祖。

生没年
出身地
越中国高岡(現・富山県高岡市)
死没地
アメリカ ニューヨーク
時代
明治・大正
役職
化学者・実業家
出身校
工部大学校(現・東京大学工学部) / グラスゴー大学
受勲
帝国学士院賞
区画
1種イ15号3側
タグ
応用化学 / 製薬 / タカジアスターゼ / アドレナリン / 越中高岡 / ニューヨーク

アドレナリンを世界で初めて結晶として取り出した男

高峰譲吉は、明治・大正の応用化学者にして実業家。タカジアスターゼ(消化酵素剤)を発明し、世界で初めてアドレナリン(エピネフリン)を純粋な結晶として単離した、近代日本が産んだ世界水準の科学者である。

19 世紀末、欧米の化学産業は染料・医薬で工業化の段階に入っていた。だが日本は明治維新からまだ 30 年、近代産業の蓄積はほとんどなかった。譲吉はその時代に単身渡米し、ニューヨークを拠点に世界市場へ製品を送り出した最初の日本人科学者となる。今日「日本の近代製薬産業の祖」と呼ばれ、第一三共の前身となる三共商店の創設に深く関わったのも譲吉だった。生体内ホルモンを結晶として取り出すという発見は、その後の内分泌学の出発点となり、現代の救命医療で日々用いられる「アドレナリン注射」の系譜は譲吉の手仕事に直接つながっている。

晩年はニューヨーク郊外に居を構え、日米交流の橋渡しに尽くした。大正 11 年(1922 年)7 月 22 日、ニューヨークで客死、享年 68。遺体は日本に運ばれ、青山霊園に葬られた。

加賀藩医の息子、グラスゴーへ

嘉永 7 年(1854 年)、越中国高岡(現・富山県高岡市)で加賀藩医・高峰精一の長男として生まれる。幼少から漢学と蘭学を修め、明治新政府が設けた工部大学校(後の東京帝国大学工学部)化学科に進学、明治 12 年(1879 年)に首席で卒業した。

卒業後すぐに政府派遣留学生として英国グラスゴー大学とアンダーソンカレッジに渡り、応用化学を修めた。当時のグラスゴーは産業革命の心臓部で、譲吉はそこで「科学を産業に直結させる」発想を深く学んだ。帰国後は農商務省に入り、人造肥料・醸造改良の研究に従事。明治 20 年(1887 年)、東京人造肥料会社(後の日産化学工業)の設立に関わり、これが日本初の本格的な化学工業会社となった。

タカジアスターゼ — アメリカ市場を制した日本発の医薬品

明治 23 年(1890 年)、譲吉は単身渡米し、ウィスキー醸造の改良技術を売り込む契約をシカゴの会社と結んだ。麹菌(コウジカビ)から得たデンプン分解酵素を使う日本流の醸造法を、アメリカの伝統的なモルト法に置き換えようという挑戦である。だが現地のモルト業者からの猛反発で工場は放火に遭い、譲吉はほぼ無一文に転落した。

挫折の淵で譲吉は、麹菌酵素を消化薬として商品化する方向に切り替える。明治 27 年(1894 年)、デンプン消化酵素を結晶化した「タカジアスターゼ」を発明、米国特許を取得した。製薬大手パーク・デービス社が世界販売権を獲得し、タカジアスターゼは「胃もたれ・消化不良の薬」として欧米で爆発的に売れた。日本人発明の薬剤として世界市場を制した初の事例である。

そして明治 33 年(1900 年)、ニューヨークの自宅研究室で、共同研究者の上中啓三と共に、副腎髄質から分泌されるホルモン「アドレナリン(エピネフリン)」を世界で初めて純粋な結晶として単離することに成功する。動物の生体内で働くホルモンを、人類が初めて手のひらに乗る形で取り出した瞬間だった。この発見は内分泌学という新分野を切り拓き、心停止・アナフィラキシーショックの救命に今も使われる「アドレナリン注射」の起点となった。譲吉の名は世界の医学史に永久に刻まれた。

ワシントンの桜と三共商店

譲吉は科学者・実業家であると同時に、日米交流の民間外交家でもあった。明治 38 年(1905 年)、東京市長・尾崎行雄が米国の親日感情への謝意としてワシントンへサクラを寄贈する計画を立てた際、譲吉はニューヨーク側でその実務を支え、寄贈実現に尽力した。明治 45 年(1912 年)にポトマック河畔に植えられたサクラ並木は、現代も毎春「全米桜祭り」を彩り、日米友好の象徴であり続けている。

国内では明治 32 年(1899 年)、塩原又策らと三共商店(現・第一三共)の創設に関与し、タカジアスターゼの日本販売基盤を作った。三共は譲吉の遺産を引き継ぎながら成長し、現代の日本製薬産業の柱の一つとなった。

ニューヨークで客死

大正 11 年(1922 年)7 月 22 日、ニューヨーク市内のレノックスヒル病院で胸膜炎により死去。享年 68。終生の活動拠点となったニューヨークで、家族に看取られて最期を迎えた。

葬儀はニューヨークで行われ、現地の科学者・実業家・日系人が多数参列した。遺骨は日本に運ばれ、故郷富山と東京の二箇所に分骨。東京の本葬は青山霊園で営まれ、墓所もこの地に定められた。

青山霊園に眠る

高峰譲吉の墓は、青山霊園 1種イ15号3側。タカジアスターゼで世界の薬箱に名を残し、アドレナリン結晶単離で世界の医学史に名を残した日本人化学者が、明治日本の代表的偉人たちと同じ青山の一画に眠っている。

故郷の富山県高岡市にも分骨墓があり、市内には高峰公園が整備され、譲吉の偉業を伝える記念館も設けられている。ニューヨーク郊外のリバーデールにあった旧邸宅「松楓殿」の建材の一部は石川県金沢市の高峰公園に移築復元され、譲吉が太平洋の両岸に遺した記憶は今も保存されている。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

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参考資料

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