長与 専斎 (1838-1902)の肖像
長与 専斎の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

長与 専斎

ながよ せんさい

Nagayo Sensai

「衛生」の語を作った明治日本の医療制度の父。初代内務省衛生局長として「医制」を制定し、近代日本の公衆衛生の骨格を築いた肥前大村出身の蘭方医。

生没年
出身地
肥前国大村藩(現・長崎県大村市)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
医療官僚
爵位
男爵
出身校
適塾
区画
1種イ12号2側
タグ
衛生 / 医制 / 内務省衛生局 / 適塾 / 岩倉使節団

「衛生」という言葉を作った男

長与専斎は、明治日本の 医療・公衆衛生制度を一から組み立てた肥前大村出身の蘭方医である。明治 5 年(1872 年)、岩倉使節団に医療班として同行し、ベルリンで初めて触れたドイツ語 “Gesundheitspflege”(健康保護の意)を、中国古典『荘子』の語 「衛生」を引いて訳出。以後、日本語の 「衛生」は彼の翻訳が定着したものとなった。

明治 8 年(1875 年)、内務省内に 衛生局を新設し、自身が 初代衛生局長に就任。明治 7 年制定の 「医制」(日本初の包括的医療制度法令)の起草者でもあり、現在の医師免許制度・公衆衛生・薬事行政の原型はすべて、長与の構想に発する。

「日本の公衆衛生の父」「医制の起草者」 — 長与専斎は、近代日本がコレラ・結核・腸チフスといった伝染病から人口を守ることができたその制度的基礎を作った、最も重要な医療官僚であった。

大村藩の蘭方医の家から、適塾の塾頭へ

天保 9 年(1838 年)8 月 2 日(陽暦 9 月 20 日)、肥前国大村藩(現・長崎県大村市)の蘭方医 長与中庵の子として生まれる。長与家は代々大村藩の医家。

13 歳で大坂に出て、緒方洪庵の 適塾に入門。福澤諭吉・大村益次郎らとは同窓となる。長与は秀才として頭角を現し、安政 5 年(1858 年)、20 歳で 適塾の塾頭(福沢の前任)に就任した。

その後長崎に移り、オランダ海軍軍医 ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort)、ボードウィン、マンスフェルトに師事して西洋医学を本格的に学ぶ。明治維新期、長与は長崎で開設された 精得館(後の長崎大学医学部)の教頭格として、若き医学生たちに最先端のオランダ医学を教授した。

岩倉使節団 — ベルリンで「衛生」と出会う

明治 4 年(1871 年)11 月、長与は 岩倉使節団に文部省理事官として参加、欧米の医療・教育制度を視察するため渡欧した。

ベルリンで長与が衝撃を受けたのは、ドイツ帝国の 公衆衛生行政の確立ぶりであった。住民健康調査、上下水道、伝染病管理、医師免許制度 — これらが「個人の医療」とは別に、国家が予防的に人口の健康を管理するという発想で組み立てられていた。

その思想を表すドイツ語 “Gesundheitspflege” および英語 “sanitary administration / hygiene” を、長与は『荘子』庚桑楚篇の 「衛生」(生を衛(まも)る)という古語に重ねて翻訳した。これが日本語の「衛生」の語源となる。

「医療は単に病を治すものではない、人口を守るための国家の制度である」 — 長与のこの確信は、帰国後の彼の生涯を貫く軸となった。

明治 7 年「医制」、明治 8 年衛生局新設

明治 6 年(1873 年)、岩倉使節団から帰国した長与は、文部省医務局長に就任。明治 7 年(1874 年)8 月、「医制」(明治 7 年 8 月 18 日達)を起草・公布した。

「医制」は日本初の包括的医療法令で、以下を一気に制度化した:

明治 8 年(1875 年)、内務省に 衛生局が新設され、長与は 初代衛生局長に就任。以後 17 年間(明治 25 年/1892 年まで)、長与は同職を務め、コレラ・天然痘・赤痢などの伝染病対策、上下水道整備、検疫制度、医師教育の標準化を主導した。

コレラ流行と国家衛生の確立

長与の衛生局長時代は、コレラ流行との戦いに費やされた。

明治 10 年(1877 年)、西南戦争時に持ち込まれたコレラ菌で全国流行が始まる。明治 12 年(1879 年)には死者 10 万人を超える大流行を記録。長与は 「伝染病予防規則」(明治 13 年)・「伝染病予防法」(明治 30 年)の制定を主導し、隔離措置・消毒・検疫・上水道改良を全国に展開した。

明治 19 年(1886 年)のコレラ流行は死者 11 万人と過去最悪の規模となったが、これを最後にコレラの大規模流行は終息する。長与の制度設計が、明治後期の日本人口を伝染病から守ったと言って過言ではない。

男爵に叙され、宮中顧問官として晩年

明治 25 年(1892 年)、衛生局長を退任。宮中顧問官・貴族院議員となり、中央衛生会会長として明治後期の衛生行政全般に影響を持ち続けた。

明治 28 年(1895 年)、男爵に叙される。明治 33 年(1900 年)、自伝『松香私志(しょうこうしし)』を執筆。明治日本の医療制度確立過程を当事者として記録した、第一級の史料である。

明治 35 年 9 月 8 日、東京で逝去

明治 35 年(1902 年)9 月 8 日、東京・本郷の自邸で死去。享年 64。葬儀は青山霊園に営まれた。

親族の著名人

長与家は明治・大正・昭和を通じて日本の文化・医療界に多くの傑物を輩出した。

逸話・エピソード

『荘子』を引いた一瞬 — 訳語「衛生」の誕生

ベルリン視察中、長与は「Gesundheitspflege(健康保護)」を日本語にどう訳すかで頭を悩ませていた。「健康保護」「健全法」「保健」など複数の候補が浮かんだが、どれも国家行政の制度名としては座りが悪い。

そんなとき、長与は若い頃に読んだ『荘子』庚桑楚篇の「衛生の経」(生を衛(まも)る道)という古語を思い出す。「これだ」 — その一瞬の閃きで「衛生」が選ばれた。後年、長与は『松香私志』の中で「漢学の素養が思わぬ場面で役に立った、福澤先生の言う『学問は活用してこそ』を地で行った」と回想している。13 歳で大坂の適塾に入る前、大村藩で漢学を叩き込まれた少年期の蓄積が、40 年後にベルリンで日本語の語彙を一つ作った。

適塾の塾頭、福澤諭吉の前任者

安政 5 年(1858 年)、20 歳の長与は緒方洪庵の適塾の塾頭となった。後任は福澤諭吉である。福澤は『福翁自伝』の中で「長与専斎は私の前任の塾頭で、頭がよく、書物の解読は塾内で群を抜いていた」と評している。

長与と福澤の関係は生涯続き、明治の啓蒙運動・教育制度・医療制度のあちこちで連携した。「適塾塾頭の二代続いて、一人は教育を、一人は医療を、近代日本の制度として組み立てた」 — 緒方洪庵の門下が明治日本に与えた影響の大きさを、塾頭リレーの二人の業績がそのまま物語っている。

青山霊園に眠る

長与専斎の墓は、青山霊園 1種イ12号2側。同じ「1種イ12号」の区画には、橋本龍太郎(4 側)・自由民権運動家渡辺昇(同 4 側)らが眠る。

「衛生」という語を作り、近代日本の医療制度の骨格を一人で組み立てた医療官僚が、明治・平成の政治家たちと同じ区画に眠っている。日本の人口寿命がここまで延びたその制度的起点を、彼の墓所が静かに証言している。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

この偉人を含む散歩コース

参考資料

← 偉人一覧に戻る