福島安正シベリア単騎横断完了
陸軍少佐・福島安正がベルリンを出発し馬一頭で約 14,000km を踏破、約 488 日かけてウラジオストクから日本に帰国。シベリア鉄道建設の進捗を実地踏査した情報将校の偉業で、明治日本中で国民的英雄となった。
ベルリンから日本へ、馬一頭で踏破したユーラシア
明治二十六年(一八九三)六月、ロシア沿海州ウラジオストクの港から定期船で日本に渡った一人の陸軍将校が、海軍の出迎えを受けて凱旋帰国を果たした。陸軍少佐・福島安正、四十一歳。前年明治二十五年(一八九二)二月十一日、ドイツ駐在武官の任を解かれてベルリンを出発してから約四八八日、騎乗してきた愛馬一頭とともにロシア帝国領を東西に踏破して、約一万四〇〇〇キロメートルの大陸単騎横断を完了したのである。シベリア鉄道の建設状況・ロシア軍の配備・少数民族地帯の地理を実地に観察した情報将校の旅は、明治日本中の国民的話題となり、福島は新聞・錦絵・幻燈で英雄として描かれた。
背景 — シベリア鉄道と対露戦略の課題
ロシア帝国は明治二十四年(一八九一)五月三十一日、ウラジオストクで皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ二世)臨席のもと、シベリア鉄道の起工式を挙行した。総延長九〇〇〇キロメートル超、世界最大の鉄道建設計画の開始である。完成すればモスクワから極東までの兵員・物資輸送時間は飛躍的に短縮され、極東におけるロシアの軍事プレゼンスは根本的に強化される。日本の陸海軍にとって、対露戦略の最大の変数はシベリア鉄道の完成時期そのものであった。
ベルリン駐在武官として欧州情勢の収集にあたっていた福島は、起工式の翌年に「ベルリンからウラジオストクまで、ロシア領内を単騎で踏査する」という計画を陸軍参謀本部川上操六次長に上申する。鉄道の建設進度・沿線地理・ロシア軍配備・少数民族との関係などを、外交特権に頼らず実地観察するという情報将校としての発想であった。出発前年の明治二十四年(一八九一)五月、福島はベルリンで起工式の報を受け取り、計画を具体化していた。
経過 — ベルリン出発から日本帰国までの四八八日
明治二十五年(一八九二)二月十一日(紀元節)、福島はベルリンの大本営武官官舎を後にする。装備は防寒具・地図・観測機器・薬品・若干の現金、そして栗毛の愛馬一頭。ルートはおおむね次の通りである。
- 明治二十五年二月 — ベルリン出発、ポーランドを横断
- 三月 — 帝政ロシア西部に入りモスクワ近辺へ
- 四月以降 — ウラル山脈越え、ペルミ・エカチェリンブルクを通過しシベリアへ
- 夏季 — 西シベリアのオムスク・トムスクを経由
- 秋 — バイカル湖畔のイルクーツク
- 冬季 — 厳寒の東シベリアを馬橇で進む
- 明治二十六年(一八九三)春 — チタ・ハバロフスクへ
- 明治二十六年(一八九三)六月十二日 — ウラジオストク到着、定期船で日本へ
- 明治二十六年六月二十九日 — 東京到着、宮中拝謁
旅程の総距離は約一万四〇〇〇キロメートル(諸資料により誤差あり)、所要日数は約四八八日。途中、シベリア鉄道の路盤工事中の各区間を実地に観測し、橋梁建設の難所・凍土地帯の工法・人員配置を詳細に記録した。シベリア各地の少数民族(ブリヤート・ヤクート・ツングース等)、流刑囚集落、コサック村落とも交流し、その生活様式・経済構造を観察している。マイナス四〇度を超える厳寒、シベリア狼や脱獄囚との遭遇、雪原での迷走、馬の体調管理 — 旅は文字通り生死を分ける連続であった。
影響 — 国民的英雄と日清・日露戦争への助走
帰国後の福島は宮中で明治天皇に謁見し、その後参謀本部第二部長・第一部長を歴任。シベリア鉄道に関する一次情報は、対露作戦計画の重要な前提として活用された。鉄道完成時期の見通し、シベリア各地の輸送能力評価、ロシア軍の極東兵站の限界点 — いずれも福島の踏査記録なしには得られない情報であった。
世論への影響もまた大きかった。新聞各紙は福島の旅を連載で報じ、錦絵師たちは「シベリア横断之図」「単騎万里之雄行」を競って描く。幻燈(マジック・ランタン)による旅行記の上演が全国で行われ、子供向けの伝記本も次々と出版された。同時代の軍人として、乃木希典(西南戦争・日清戦争従軍)・秋山好古(対露騎兵戦術の研究者)らがそれぞれの活躍を始めつつあった時期に、福島は「冒険的軍人」の理想像として位置づけられる。司馬遼太郎『坂の上の雲』にも、明治国家を背負う情報将校の代表として、好古・真之兄弟と並んで言及されている。
シベリア鉄道は明治三十七年(一九〇四)七月にバイカル湖区間を除いてほぼ完成し、奇しくも同年二月の日露戦争開戦に間に合った。バイカル湖区間は氷上鉄道で凌ぎ、戦争中期の明治三十八年(一九〇五)九月に全線完成。福島の踏査から鉄道全線完成までちょうど十二年、踏査が明らかにした「ロシアの極東兵站が完成する前に決着をつけねばならない」という戦略判断は、日露戦争の対露早期決戦方針の根拠の一つとなった。
福島自身は日清戦争・北清事変・日露戦争を通じて情報参謀として活躍し、最終的に陸軍大将・参謀次長・関東都督を歴任、男爵に列せられた。本霊園に眠る。シベリア横断は単なる冒険談ではなく、明治日本の情報収集力の到達点を示す事件として、現在も陸軍史・冒険史の両面から語り継がれている。