E V E N T

第二回旅順港閉塞作戦(広瀬武夫戦死)


ロシア艦隊封じ込めの自爆船作戦で、指揮官・広瀬武夫海軍中佐が部下・杉野孫七を探した末に被弾戦死。「軍神」の名は本作戦で生まれた。

Lushunkou 01
Lushunkou 01 Kamakura / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
日付
カテゴリ
戦争

「杉野はいずこ」 — 軍神誕生の夜

第二回旅順港閉塞作戦は、明治 37 年(1904 年)3 月 27 日未明、日露戦争初期に日本海軍が行ったロシア太平洋艦隊封じ込め作戦である。老朽船 4 隻を旅順港の狭い港口で自沈させて出口を塞ぐという、ほぼ生還を期待できない決死の任務であった。

この作戦で福井丸の指揮を取った海軍少佐・広瀬武夫が、爆破前に行方不明となった部下・杉野孫七兵曹長を捜して燃え盛る船底を 3 度往復した末、退避直後にロシア軍の砲弾を頭部に受けて戦死した。文部省唱歌『広瀬中佐』(1912 年)に「杉野はいずこ、杉野はいずこ」と歌われ、戦前日本の修身教育で最も有名な軍人の最期となる。

背景 — 旅順艦隊をどう無力化するか

明治 37 年(1904 年)2 月の日露戦争開戦時、ロシア太平洋艦隊は旅順港を母港としていた。戦艦 7 隻・装甲巡洋艦 1 隻を含む主力艦隊が旅順に閉じこもったまま、ウラジオストク方面のロシア巡洋艦隊と連携すれば、日本本土と満洲を結ぶ補給路は危殆に瀕する。陸軍を満洲に渡すためにも、旅順艦隊の無力化は最優先課題であった。

開戦初日(2 月 8 日)の連合艦隊主力による旅順港外攻撃で戦艦 3 隻に損害を与えたが、ロシア艦隊は港内に退避して防御態勢を取った。旅順港は港口がきわめて狭く(幅約 270m)、両岸に砲台を備えた天然の要塞港である。正面攻撃で艦隊決戦に持ち込むことは困難だった。

連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、有馬良橘大佐(秋山真之参謀の同期)の発案を採用し、老朽船を港口で自沈させて物理的に出口を塞ぐ「閉塞作戦」を立案した。第一次(2 月 24 日)、第二次(3 月 27 日)、第三次(5 月 2 日)と計 3 回実施され、いずれも夜間に老朽船を港口まで突入させ、ロシア艦隊と砲台の集中砲火を浴びながら自沈させる、極めて危険な作戦である。

3 月 27 日未明 — 福井丸の最期

第二次閉塞作戦に投入されたのは、千代丸・福井丸・弥彦丸・米山丸の老朽船 4 隻。指揮官は順に斎藤七五郎大尉、広瀬武夫少佐、ら 4 名。広瀬は第一次でも報国丸の指揮官として志願参加しており、第二次でも自ら福井丸の指揮を取った。

3 月 27 日午前 2 時過ぎ、4 隻は旅順港口に接近。ロシア軍は事前に警戒態勢を強めており、サーチライトと海岸砲、港内の駆逐艦からの集中砲火が浴びせられた。広瀬の福井丸は港口手前で被弾しつつ、自沈位置に到達。広瀬は爆薬の点火を確認し、乗員を救命艇に移すよう命じた。

退艦点呼の結果、機関員・杉野孫七兵曹長一人が船内で行方不明と判明する。広瀬は救命艇を待たせ、燃え盛る福井丸の船内を 3 度にわたって捜索した。船底まで降り、機関室・隔壁を探したが、ついに杉野を発見できなかった。最後にやむなく救命艇に移った直後、ロシア軍の砲弾が直撃。広瀬は頭部を撃ち抜かれ、戦死した。享年 36。

ボートに残されたのは、わずかな血痕と肉片だけだったと、生還した部下たちの証言に伝わる。杉野兵曹長の遺体もついに発見されていない。

作戦の成否と戦果

軍事的に見れば、第二次閉塞作戦は失敗であった。投入された船舶は港口に達する前あるいは港口で自沈したが、いずれも狙い通りの位置に沈めることができず、ロシア艦隊の脱出可能性を完全には封じられなかった。続く第三次(5 月 2 日)でも同じく決定的な封鎖には至らず、旅順艦隊の無力化は陸軍による旅順要塞攻略(同年 12 月 - 翌 1 月)を待つことになる。

日本側の損害は深刻だった。閉塞作戦 3 回を通じて、戦死者は数十名、戦傷者多数。投入された老朽船はすべて喪失した。一方、ロシア側の主力艦は無事で、6 月の旅順艦隊脱出失敗(黄海海戦)まで港内に温存された。

「軍神」の誕生

軍事的失敗にもかかわらず、広瀬の最期は日本国内で大々的に報じられ、彼は戦死直後に少佐から中佐に進級、「軍神」として全国に知られた。明治 37 年(1904 年)4 月、東京帝国大学法科大学長・穂積八束らが「広瀬中佐遺族扶助義捐金」を発起、全国から義捐金が集まった。

戦前日本の修身教科書は、広瀬を「武士道の体現者」「部下を見捨てなかった指揮官」として大書した。文部省唱歌『広瀬中佐』(1912 年・佐々木信綱作詞)は、戦前期の小学校で繰り返し歌われ、「杉野はいずこ、杉野はいずこ、船内くまなく尋ぬる三度」の一節は国民的記憶となった。

郷里・大分県竹田市には大正 4 年(1915 年)に広瀬神社が建立される。明治・大正・昭和戦前期を通じて、広瀬武夫乃木希典と並ぶ「日本陸海軍の精神的シンボル」であった。

歴史的影響

  1. 旅順艦隊封じ込めの限界の露呈

3 回の閉塞作戦すべてで決定的な封鎖に失敗したことで、海軍主導の旅順艦隊無力化が困難であることが明らかになった。陸軍による旅順要塞攻略の必要性が確定し、第三軍(司令官・乃木希典)が編成されることになる。

  1. 「軍神」概念の制度化

広瀬武夫は、明治政府が「軍神」を国家レベルで顕彰した最初の事例とされる。後に乃木希典・橘周太(日露戦争・遼陽会戦戦死)・東郷平八郎などが続き、戦前日本における軍人英雄化の制度的枠組みが整っていく。

  1. ロシア側からの敬意

奇しくも広瀬はかつて駐露武官として 5 年間ペテルブルクに駐在し、ロシア海軍を内側から学んだ親露派でもあった。ロシア側でも広瀬の戦死は報じられ、武人としての敬意の対象となった。日露双方で武勇を讃えられた稀有な人物である。

関連する偉人とその役割

広瀬 武夫(海軍中佐 / 福井丸指揮官)

豊後国岡藩(現・大分県竹田市)の岡藩士の次男として生まれる。海軍兵学校第 15 期。柔道の達人で、質実剛健な海軍士官として知られた。明治 30-35 年(1897-1902 年)、駐露武官としてペテルブルクに駐在し、ロシア海軍を研究するとともに、ロシア海軍将校アリアジン少将の娘アリアズナと相思相愛になった経歴を持つ。

開戦時には誰よりも「敵を知る」海軍士官であった。第一次・第二次の旅順港閉塞作戦に自ら指揮官として志願し、第二次で部下・杉野孫七兵曹長を捜して船内を 3 度往復した末に戦死した。享年 36。戦死後ただちに少佐から中佐に進級、文部省唱歌『広瀬中佐』で歌われ、「軍神」として明治・大正・昭和戦前期の修身教育の柱となった。本霊園 1種イ21号9側に、海軍中将となった兄・広瀬勝比古と並んで眠る。

関連する作品

文部省唱歌『広瀬中佐』(1912 年・佐々木信綱作詞・作曲者不詳)は、戦前期の小学校で広く歌われた代表曲。「杉野はいずこ、杉野はいずこ」の一節は今日でも歴史教材に登場する。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、ペテルブルクの広瀬とアリアズナの恋愛、福井丸の最期が一章を割いて描かれる。島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫』(朝日新聞社)は、駐露武官時代を中心とする伝記研究の代表作である。

大分県竹田市の広瀬神社、広瀬武夫記念館、青山霊園の墓所と、彼を偲ぶ場所は今も各地に残る。

参考資料

← 事件一覧に戻る