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黄海海戦(日露戦争)


旅順港外で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア太平洋艦隊と交戦。ロシア司令官ヴィトゲフトを戦死させ、旅順艦隊の脱出を阻止、日本海海戦への布石を作った。

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Tsesarevich1904Qingdao1 Неизвеитен. / Wikimedia Commons / Public domain
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戦争

旅順艦隊脱出阻止 — 日本海海戦への布石

黄海海戦は、明治 37 年(1904 年)8 月 10 日、旅順港から脱出を図ったロシア太平洋艦隊と、これを待ち受けた東郷平八郎率いる連合艦隊が黄海上で交戦した、日露戦争屈指の艦隊決戦である。

東郷の連合艦隊はロシア艦隊の旅順帰投を阻止し、ロシア側司令官ヴィルゲルム・ヴィトゲフト海軍少将を戦死させた。旅順艦隊はウラジオストク到達を断念して旅順に逃げ戻り、以降港内で身動きが取れなくなる。9 か月後の日本海海戦(1905 年 5 月)で勝負を決する日本側にとって、極東海域の制海権を実質的に確保した一戦であった。

背景 — 旅順艦隊の身動きの取れない 6 か月

明治 37 年(1904 年)2 月の開戦以来、ロシア太平洋艦隊は旅順港内に閉じこもり、日本海軍の閉塞作戦(2-5 月、計 3 回)や陸軍の旅順攻囲戦(同年 7 月開始)による圧迫を受けていた。

陸軍が旅順背後の高地を占領しつつあり、港内に砲撃を加えられる距離まで詰めていた。ロシア皇帝ニコライ 2 世は、旅順艦隊を消耗させる前にウラジオストク方面へ脱出させ、欧州から派遣予定のバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)と合流させる戦略を立てた。

8 月 7 日、日本陸軍が大孤山方面の高地を占領、旅順港内への砲撃が始まった。これを受けて旅順司令部は脱出を決断、新司令官ヴィトゲフト少将(前任スタルク海軍中将は更迭)が艦隊を率いて出撃する。

8 月 10 日 — 黄海上の追撃戦

8 月 10 日午前 8 時 30 分、旅順艦隊(戦艦 6 隻・装甲巡洋艦 4 隻、駆逐艦 8 隻)が旅順港から出撃。ウラジオストクへ向けて北東進した。連合艦隊主力(戦艦 4 隻・装甲巡洋艦 2 隻、巡洋艦・駆逐艦多数)を率いた東郷平八郎は、外洋でこれを捕捉、決戦を仕掛けた。

戦闘は午後 0 時 15 分頃から開始。両艦隊は並行射撃で打ち合うが、火力・命中精度ともに日本側に分があった。午後 5 時 40 分頃、ロシア旗艦ツェサレーヴィチが日本側戦艦三笠の主砲弾を司令塔に被弾。司令官ヴィトゲフト少将は戦死、艦長以下幕僚も多数が即死する。

司令塔を失ったツェサレーヴィチは舵が利かなくなり、ロシア艦隊は陣形が崩壊。脱出を断念して旅順帰投を選ぶ艦が大勢を占め、ツェサレーヴィチ自身は中立国・ドイツ領青島に逃れて武装解除、戦線から除外された。

戦闘は日没を挟んで断続的に続き、ロシア艦隊主力は旅順港内に逃げ戻り、一部は中立国港(青島・上海・サイゴン)に逃れて武装解除された。日本側の主力艦は全艦無事だった。

戦果と損害

ロシア艦隊連合艦隊
戦艦大破 2、青島逃避 1主要損害なし(命中弾は多数)
装甲巡洋艦1 隻自沈0
司令官ヴィトゲフト少将戦死東郷平八郎以下無事
戦死者約 200 名以上(旗艦のみで)数十名
戦略的結果旅順帰投・脱出失敗旅順艦隊封じ込め確定

軍事的に「決定的勝利」とは言えなかったが、戦略的には旅順艦隊の戦力としての価値を完全に奪った。この勝利の数日後(8 月 14 日)、蔚山沖でウラジオストク艦隊が上村彦之丞率いる第二艦隊に撃破され、ロシア極東艦隊の組織的活動は終わった。

歴史的影響

  1. 旅順艦隊の戦力放棄、陸軍による旅順攻略の前提

旅順艦隊が再脱出を断念したことで、その後の作戦は「港内で消耗する艦隊を陸軍が要塞攻略で仕留める」構造に固定した。乃木希典の第三軍は同年 8-12 月の総攻撃で多大な犠牲を出しつつ、12 月の二〇三高地占領後、山頂からの観測射撃で港内の艦艇を順次撃沈、明治 38 年(1905 年)1 月の旅順陥落に至る。

  1. バルチック艦隊との合流計画の崩壊

旅順艦隊壊滅とウラジオストク艦隊撃破の後、ロシアは欧州からバルチック艦隊を単独で派遣せざるを得なくなる。喜望峰経由の長大な航海(約 18,000 海里・7 か月)を強いられたバルチック艦隊は、日本海海戦(1905 年 5 月)で疲弊しきった状態で連合艦隊と対峙、壊滅した。

  1. 「丁字戦法」の実戦準備

黄海海戦では、連合艦隊参謀長・加藤友三郎と作戦参謀・秋山真之らが立案した艦隊運用が試された。並行射撃中心ではあったが、敵旗艦への集中砲火、火力集中の運用要領、信号運用の精度 — これらの実戦経験が、9 か月後の日本海海戦で「丁字戦法」「東郷ターン」の完成度の高い運用に直結する。

  1. 「司令官戦死で艦隊崩壊」の教訓

ヴィトゲフトの戦死で旅順艦隊の指揮系統が瞬時に崩壊した事実は、各国海軍に「司令塔の防御強化」「指揮継承の制度化」の課題を突きつけた。第一次世界大戦期の各国艦艇設計にも影響を与えたとされる。

関連する偉人とその役割

加藤 友三郎(連合艦隊参謀長 / 海軍少将)

広島藩士の家に生まれ、海軍兵学校第 7 期・海軍大学校第 1 期生として海軍内で頭角を現した、日本海軍最高頭脳の一人。明治 37 年(1904 年)2 月の連合艦隊編成以来、参謀長として東郷平八郎を補佐する。

黄海海戦では、旗艦三笠の艦橋で東郷の隣に立ち、艦隊運用・信号統制・火力集中の実務を統括した。砲弾の至近で動じない冷静沈着な指揮ぶりは、後の日本海海戦で「丁字戦法」を成功させる土台となる。後年、第 21 代内閣総理大臣・ワシントン海軍軍縮条約の日本側全権を務める。本霊園 1種ロ12号1・6側に眠る。

山本 権兵衛(海軍大臣 / 海軍大将)

薩摩出身、海軍兵学寮卒。海軍大臣として六六艦隊計画を推進し、日露戦争の海軍体制を一手に作り上げた制度設計者である。東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した責任者でもあった。

黄海海戦時には海軍大臣として、開戦後の補給・人事・戦時動員を統括し、連合艦隊が長期作戦を維持できる後方体制を支えた。旅順艦隊封じ込めという戦略目標が達成された背景には、開戦前夜からの長期的な海軍整備があった。後年、第 16 代・第 22 代の内閣総理大臣を歴任。本霊園 1種イ9号26側に眠る。

関連する作品

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、黄海海戦は日本海海戦への布石として描かれる。秋山真之参謀の作戦立案、ヴィトゲフトの戦死、ロシア旗艦の混乱が時系列で描写される。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)でも、黄海海戦の場面が映像化されている。

吉村昭『海の史劇』(新潮文庫)は、開戦から日本海海戦までの海戦史を記録文学として描く代表作で、黄海海戦の経過にも詳しい。東京・三笠公園には旗艦三笠が記念艦として保存され、黄海海戦・日本海海戦の現物史料を見学できる。

参考資料

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