有馬 良橘
ありま りょうきつ
Arima Ryokitsu
旅順港閉塞作戦を立案・指揮した海軍大将。退役後は明治神宮宮司として 12 年務め、国民精神総動員中央連盟会長も歴任した。
旅順港閉塞作戦の立案者 ——「死を覚悟する作戦」を組み立てた人
有馬良橘は、日露戦争開戦直後の旅順港閉塞作戦を立案し、自ら指揮官の一人として参加した海軍大将である。連合艦隊参謀として、ロシア太平洋艦隊を旅順港内に閉じ込めるべく、老朽商船に石炭・コンクリートを詰めて自沈させる作戦を組み立てた。
第一次閉塞(明治 37 年 2 月 24 日)では自ら閉塞船「報国丸」の指揮を執り、第二次閉塞(同 3 月 27 日)では計画立案者として後方から戦友・広瀬武夫らを送り出した。広瀬は第二次閉塞で乗艦「福井丸」沈没時に部下を救おうとして戦死し、日本中の英雄となる — 有馬は親友であり戦友であった広瀬を、自分が組み立てた作戦で失った。
晩年は明治神宮宮司として 12 年務め(昭和 6 年-同 18 年)、神宮の祭祀を整えた。海軍を退いた後の長い余生を、明治天皇を祀る神宮に捧げた人物として、海軍史と神社史の両方に名を残す。
紀州藩医の家に生まれ、海軍兵学校へ
文久元年(1861 年)11 月、紀伊国和歌山(現・和歌山市)に生まれる。紀州藩の藩医(奥医師)・有馬元函の長男。父は紀州藩主の侍医を務めた医家の家系で、武家ではないが家格は高かった。
明治 15 年(1882 年)9 月、海軍兵学校に 44 名中 16 位で入校。明治 19 年(1886 年)12 月、19 名中 16 位で卒業し、海軍少尉候補生に任官。順位は中位だったが、その後の経歴は同期の中で際立っていく。
日清戦争(明治 27-28 年)では、東郷平八郎が艦長を務める防護巡洋艦「浪速」の航海長として東郷の指揮下で従軍。豊島沖海戦・黄海海戦で東郷の補佐を務め、東郷との師弟関係に近い結びつきがこの時期に作られた。
連合艦隊参謀 — 旅順港閉塞作戦を立案する
明治 37 年(1904 年)2 月、日露戦争開戦。有馬は連合艦隊参謀として、ロシア太平洋艦隊の活動を封じる作戦の立案に取り組んだ。
旅順港はロシアの極東海軍の根拠地で、港口の細く狭い水路を通って外海に出る構造を持つ。この水路に老朽商船を自沈させて塞げば、ロシア艦隊は港から出られなくなる ——それが閉塞作戦の発想だった。乗組員は自沈直前まで艦上で作業し、最後の瞬間に短艇で脱出する。「ほぼ確実に死ぬ作戦」と当時から理解されていた。
第一次閉塞作戦は明治 37 年(1904 年)2 月 24 日。閉塞船 5 隻のうち有馬は「報国丸」指揮官として参加し、ロシア軍の砲火の中で自沈位置に船を進めた。報国丸は予定位置に達せず、ロシア駆逐艦に押し戻されて作戦は不完全に終わったが、有馬は短艇で脱出し生還した。
3 月 27 日の第二次閉塞作戦には広瀬武夫(海兵 15 期)が「福井丸」指揮官として参加。広瀬は自沈直前、行方不明の部下・杉野孫七を捜して三度艦内を巡回した後、短艇に乗ったところでロシア軍の砲弾の直撃を受け戦死した。広瀬の戦死は日本中で「軍神広瀬」として語り継がれ、唱歌『広瀬中佐』が国民歌となった。
有馬は親友広瀬を自分の立てた作戦で失った。生涯これを語ろうとせず、広瀬の墓参を欠かさなかったと伝わる。
海軍大将への昇進、退役へ
日露戦争後、明治 42 年(1909 年)少将、大正 2 年(1913 年)中将、大正 8 年(1919 年)11 月 25 日に海軍大将親任。大正 11 年(1922 年)4 月 1 日、予備役編入。
海軍大将としての公的活動は穏当で、表立った派閥対立に関わることもなく、有馬は静かに海軍を退いた。
明治神宮宮司 — 海軍大将から神官へ
退役後の昭和 6 年(1931 年)9 月 14 日、有馬は明治神宮第 4 代宮司に就任した。明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮(大正 9 年鎮座)は、当時の日本の代表的神社の一つで、宮司は社会的に重い地位だった。
有馬は昭和 18 年(1943 年)8 月 27 日まで 12 年にわたって宮司を務めた。明治神宮の祭祀整備、神宮外苑の管理運営、戦時下の神宮例祭の継続 — 海軍大将が神官として神社を統べる珍しい姿だったが、本人は「明治天皇に仕えた身として、明治の神宮に最後の奉公をする」と語っていたと伝わる。
昭和 12 年(1937 年)10 月 12 日、国民精神総動員中央連盟会長にも就任。日中戦争下の国民精神運動を率いる立場として、神宮宮司と兼任した。
4 月、天皇からの葡萄酒 — 病床の元帥へ
昭和 19 年(1944 年)、有馬は病床に臥した。82 歳、太平洋戦争の戦局が悪化する最中である。
最晩年、昭和天皇・香淳皇后から「お尋ね」として葡萄酒が下賜された。明治神宮宮司を 12 年務めた老海軍大将への、天皇皇后の深い慰問だった。有馬は葡萄酒を口にしながら涙を流したと伝わる。
5 月 1 日、有馬死去。享年 82。日露戦争で連合艦隊参謀として閉塞作戦を立案し、第二次大戦末期に明治天皇の御陵に近い場所で世を去った人物だった。
逸話・エピソード
「報国丸」沈没時に短艇で脱出 ——閉塞船指揮官の生還
第一次旅順港閉塞作戦(明治 37 年 2 月 24 日)で、有馬は閉塞船「報国丸」の指揮官として旅順港口に進入した。ロシア軍の砲台と駆逐艦からの集中砲火を浴びる中、報国丸は予定位置に達することなくロシア駆逐艦の体当たりで押し戻された。
有馬は艦を自沈させた後、短艇に乗り組員と共に脱出。冬の旅順湾を漂流する短艇は、約 2 時間後に味方の駆逐艦に救助された。海面の温度は氷点下、ロシア軍の搜索を避けるため明かりも灯せず、艦長・有馬は震える部下たちを励ましながら漂流した。「自分が決めた作戦で部下を死なせるわけにはいかない」 — 後年、本人がぽつりと語った言葉だった。
広瀬武夫を送り出した夜 — 作戦立案者の葛藤
第二次旅順港閉塞作戦(明治 37 年 3 月 27 日)出撃前夜、連合艦隊司令部で広瀬武夫(海兵 15 期、福井丸指揮官)と有馬は最後の打合せを行った。広瀬は第一次閉塞でも参加し生還しており、二度目の出撃を志願していた。
有馬は広瀬の手を握り「無事に帰って来い」と言ったが、広瀬は「いえ、これが最後の出撃です」と静かに答えた。翌朝、福井丸は予定位置に達して自沈、広瀬は部下・杉野孫七を捜して艦内を三度巡回した後、短艇に乗ったところで戦死。
戦後、広瀬の遺骨が日本に戻り、青山墓地で葬儀が営まれた日、有馬は終始言葉少なに立ち尽くしていたという。自分が立てた作戦で親友を失った海軍参謀の表情は、生涯解けることがなかった。
明治神宮宮司就任時の「私は明治天皇の海軍に仕えた」
昭和 6 年(1931 年)9 月、有馬は明治神宮宮司就任にあたって「私は海軍士官として明治天皇の御代に仕えた身。退役後の余生を、明治天皇の神宮に捧げる」と語った。70 歳近い老海軍大将が神官の装束に身を包む姿に、当時の新聞は「明治と昭和を繋ぐ宮司」と書いた。
宮司として有馬は祭祀の様式を整え、神宮外苑(大正 15 年完成、競技場・絵画館を擁する近代日本最大の神宮苑)の運営にも力を注いだ。神宮外苑競技場(現・国立競技場の前身)はオリンピック招致(幻の昭和 15 年大会)の中心施設となり、有馬は宮司として外苑の管理に関わり続けた。
青山霊園に眠る
有馬良橘の墓は青山霊園にある。同じ青山霊園には、旅順港閉塞作戦で戦死した親友・広瀬武夫、同時代の元帥海軍大将・伊集院五郎、連合艦隊参謀長を務めた島村速雄、海軍大臣・首相を務めた山本権兵衛・加藤友三郎 — 日露戦争の海軍を共に作り上げた人々がいる。
旅順の凍る海から明治神宮の杜まで、海と神を結んだ人生の終着点が、この霊園にある。






