旅順要塞陥落
乃木希典率いる第 3 軍が 203 高地占領後、ロシア軍ステッセル中将と水師営で会見、旅順要塞が降伏。日本側 5 万 9,000 名の犠牲を出した激戦の終結。
二〇三高地と水師営 — 旅順要塞、ついに陥落
旅順要塞陥落は、明治 38 年(1905 年)1 月 2 日、乃木希典率いる日本陸軍第三軍とロシア軍ステッセル中将がそれぞれ降伏文書に署名し、半年にわたる激戦の末に世界有数の難攻不落要塞が日本側の手に落ちた出来事である。
降伏調印翌日の 1 月 5 日、水師営の民家でステッセルと乃木が会見した。乃木がステッセルに帯剣を許し、敗将の名誉を尊重したこの場面は、文部省唱歌『水師営の会見』として戦前期日本に深く刻まれ、武士道精神の象徴として歴史に残った。
しかし旅順攻略の代償は重く、日本側戦死約 1 万 5,000 名・負傷約 4 万 4,000 名(合計約 5 万 9,000 名)。乃木自身の二人の息子・勝典(南山戦)と保典(二〇三高地)もこの戦争で戦死していた。7 年後、明治天皇の大喪の日(1912 年 9 月 13 日)に乃木夫妻が自刃殉死する遠因は、この旅順での戦死者への責任感にあった。
背景 — 旅順要塞という難物
旅順は、明治 31 年(1898 年)以降ロシアが清国から租借し、20 年近くをかけて要塞化した、当時世界最高水準の永久要塞であった。北部の鶏冠山・盤龍山・松樹山、東鶏冠山、二〇三高地など、市街地を囲む高地に厚さ数 m のコンクリート堡塁を築き、機関銃陣地・砲台のクロスファイヤーで攻略を阻む構造となっていた。
明治 37 年(1904 年)2 月の開戦後、ロシア太平洋艦隊は旅順港に立て籠もった。海軍の閉塞作戦(2-5 月)・黄海海戦(8 月 10 日)で旅順艦隊は港内に封じ込められたが、無力化するためには陸軍による要塞攻略が不可欠となった。
明治 37 年(1904 年)5 月、第三軍が編成され、司令官には長府藩出身の乃木希典が任命される。参謀長は伊地知幸介少将。指揮下に第 1・第 9・第 11 師団を擁し、後期には第 7 師団も加わる、計 9 万人規模の攻囲軍であった。
8 月から 11 月 — 三度の総攻撃と膨大な犠牲
8 月 19-24 日の第一回総攻撃、10 月 26-30 日の第二回総攻撃、11 月 26-28 日の第三回総攻撃 — いずれも東鶏冠山・盤龍山・松樹山などの主要堡塁への正面突撃を繰り返したが、ロシア軍の機関銃陣地に阻まれて多数の戦死者を出した。第一回総攻撃だけで日本側戦死 5,000 名以上、負傷者は 1 万 5,000 名を超えた。
「肉弾」と呼ばれる正面突撃戦法は、後の歴史家・司馬遼太郎『坂の上の雲』をはじめ多くの批判の対象となった。一方、近年の研究では、当時の世界の要塞攻略法に他の選択肢が少なかった現実、伊地知参謀長や乃木司令官の指揮ぶりの再評価、満洲軍総参謀長・児玉源太郎の現地視察と戦法転換の実情など、複眼的な分析が進んでいる。
12 月 — 二〇三高地占領、港内艦艇への観測射撃
第三回総攻撃の途中、海軍からの強い要請を受け、攻撃重点は西部の二〇三高地に移された。二〇三高地(海抜 203m)からは旅順港全体を見下ろせ、占領できれば山頂からの観測射撃で港内のロシア艦艇を順次撃沈できる。
満洲軍総参謀長・児玉源太郎が大連から旅順に赴き、第三軍の指揮を実質的に補佐したと伝わる(児玉の関与の度合いについては史料解釈に幅がある)。12 月 5 日、激戦の末に日本軍が二〇三高地を占領。山頂に観測所を設置し、二八サンチ榴弾砲を含む重砲を運び込んで、港内のロシア艦艇への観測射撃を開始した。
12 月中旬までに、戦艦レトヴィザン・ペレスヴェート・ポベーダ・ポルタヴァ、装甲巡洋艦バヤーン、巡洋艦パラーダなど、旅順艦隊の主力艦は順次自沈または着底。9 か月にわたって日本海軍を脅かしていたロシア太平洋艦隊は、艦隊として消滅した。
乃木の次男・保典少尉は、この二〇三高地の戦いで戦死(11 月 30 日)。長男・勝典(明治 37 年 5 月、南山の戦いで戦死)に続いて、乃木は二人の息子を旅順方面で失った。
1 月 1 日 — ステッセルからの降伏申し入れ
二〇三高地占領後も日本軍の攻撃は続き、東鶏冠山堡塁(12 月 18 日)、二龍山堡塁(28 日)、松樹山堡塁(31 日)が相次いで陥落した。市街地への直接攻撃が間近となった明治 38 年(1905 年)1 月 1 日、ロシア要塞司令官アナトーリー・ステッセル中将は乃木に降伏使者を派遣、停戦を申し入れた。
1 月 2 日、双方の代表が水師営付近で開降伏条件協議を行い、同日中に降伏文書に調印した。日本側はロシア軍将校に帯剣を許し、私物の携帯を認めるなど、武人としての名誉を尊重した条件で合意した。
1 月 5 日 — 水師営の会見
1 月 5 日、水師営の民家で、乃木希典とアナトーリー・ステッセル両司令官の会見が行われた。会見場には日本側通訳・川上俊彦、ロシア側通訳のほか少数の幕僚が同席。乃木はステッセルに帯剣を許し、両者は敗将と勝者という関係を超えて、武人としての敬意を交わした。
両者の記念撮影では、ステッセル以下ロシア軍将校が帯剣のまま、乃木以下日本軍将校と並んで立った。「敵将に帯剣を許す」という乃木の判断は、世界の戦争史でも稀有な敗者尊重の事例として、戦前期日本に深く記憶される。
文部省唱歌『水師営の会見』(明治 43 年/1910 年・佐佐木信綱作詞・岡野貞一作曲)は、「旅順開城約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営」の歌詞で、戦前期日本の小学校で広く歌われた。
戦果と損害
| 日本 | ロシア | |
|---|---|---|
| 戦死者 | 約 1 万 5,400 名 | 約 1 万 6,000 名 |
| 戦傷者 | 約 4 万 4,000 名 | 約 1 万 4,000 名 |
| 戦病者 | 約 3 万名以上 | 約 3 万名以上 |
| 艦艇損失 | — | 戦艦・装甲巡洋艦ほぼ全損 |
| 捕虜 | — | 約 3 万 2,000 名 |
日本側の戦死・戦傷合計約 5 万 9,000 名は、日露戦争全体の戦死傷者の約 4 分の 1 に相当する。「人命の損耗で要塞を奪った」と言われる所以である。
歴史的影響
- 日露戦争の戦局決定
旅順陥落により、ロシア極東艦隊は艦隊としての存在を消滅させた。日本海軍は欧州から派遣されるバルチック艦隊との一対一の決戦に集中できる態勢が整い、5 月の日本海海戦勝利の前提となった。
- 陸戦の主戦場の北上
旅順方面で拘束されていた第三軍は、要塞陥落後ただちに北上、3 月の奉天会戦に主力として参加する。この戦力転換が、奉天会戦でのロシア軍包囲・撃退の鍵となった。
- 「乃木」という象徴の形成
世界有数の難攻不落要塞を陥落させたことで、乃木希典は明治期日本で最も広く名を知られた軍人となった。一方、人命の損耗の責任、二人の息子を失った父としての悲嘆、降伏会見での敗者尊重の佇まい — これらの複雑な像が「乃木大将」として国民の精神生活に深く食い込み、7 年後の殉死(1912 年 9 月 13 日)と相まって、夏目漱石『こゝろ』や森鷗外『興津弥五右衛門の遺書』など明治末から大正期の文学に決定的な影響を与えた。
- 第一次世界大戦への戦術的影響
旅順攻略で得られた塹壕戦・要塞攻略の経験は、各国軍事関係者の研究対象となった。第一次世界大戦の西部戦線で繰り返された塹壕戦は、旅順を一つの先駆事例と捉える研究も多い。
関連する偉人とその役割
乃木 希典(第三軍司令官 / 陸軍大将)
長府藩士の三男として江戸に生まれる。西南戦争(1877 年)で連隊旗を西郷軍に奪われた負い目を生涯抱え続けた軍人である。日露戦争では第三軍司令官として、半年に及ぶ旅順攻略を指揮した。
旅順陥落後、後の昭和天皇となる迪宮裕仁親王の学習院院長(1907 年就任)として皇族・華族子弟の教育にあたる。明治 45 年(1912 年)9 月 13 日、明治天皇の大喪の日に妻・静子とともに自刃殉死。「殉死とは何か」を近代日本に突きつけた人物であり、夏目漱石『こゝろ』・森鷗外『阿部一族』に直接の影響を与えた。本霊園 1種ロ10号26側に夫妻で眠る。
関連する作品
司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、旅順攻略は中盤の重要場面として描かれ、伊地知幸介参謀長・乃木希典への批判的見解が示される(近年の研究では再評価が進んでいる)。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)では、柄本明が乃木を演じ、二〇三高地の戦闘と水師営の会見が映像化された。
文部省唱歌『水師営の会見』(明治 43 年/1910 年)、岡本綺堂『山椒大夫』『修禅寺物語』(直接旅順を描いた作品ではないが、同時代の精神生活を表現)、夏目漱石『こゝろ』(1914 年・乃木殉死に直接言及)、森鷗外『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』(殉死を主題化)など、明治末から大正期の代表的文学作品が旅順とその司令官を背景に持つ。
東京・乃木坂の乃木神社、京都・伏見の乃木神社、栃木県那須の乃木神社、そして青山霊園の乃木夫妻の墓所と、彼を偲ぶ場所は今も各地に残る。