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日本海海戦


東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を対馬沖で撃破。参謀長・加藤友三郎が「T 字戦法」の運用を補佐、日露戦争の勝利を決定づけた。

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Mikasa-Bridge-Painting-by-Tojo-Shotaro Tōjō Shōtarō / Wikimedia Commons / Public domain
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戦争

日露戦争の総決算として

日本海海戦は、日露戦争(明治 37-38 年・1904-1905 年)の最終局面で行われた、日本連合艦隊とロシア帝国海軍バルチック艦隊の海上決戦である。明治 38 年(1905 年)5 月 27 日から 28 日にかけて、対馬東水道(現在の長崎県・対馬と韓国・釜山の間の海峡)で戦われた。

日露戦争は同年 1 月に旅順要塞が陥落、3 月の奉天会戦で陸戦の大勢が決まり、残された大きな未解決問題が「欧州からはるばる回航してくるロシア・バルチック艦隊をどう迎え撃つか」だった。バルチック艦隊が極東に到達して制海権を握れば、戦争は長期化し、日本の戦力・財政の限界に達してしまう。バルチック艦隊を撃滅できるかが、戦争全体の勝敗を決する一戦と認識されていた。

バルチック艦隊の長大な航海

ロシア皇帝ニコライ 2 世は、明治 37 年(1904 年)10 月、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー海軍中将を司令官として、バルト海のリバウ港から太平洋へ向けて第二太平洋艦隊(通称・バルチック艦隊)を派遣した。戦艦 8 隻を含む 38 隻の大艦隊である。

スエズ運河は英国の意向で大型艦の通行が制限されたため、艦隊は喜望峰経由でアフリカ大陸南端を回るルートを取る。約 18,000 海里(33,000 km)、7 か月の長大な航海で、艦底に貝が付着して速度が落ち、乗組員の士気も低下した。明治 38 年(1905 年)5 月 14 日、バルチック艦隊はベトナム・カムラン湾を発って日本海方面へ向かった。

対馬沖の決戦 — 「皇国の興廃此の一戦に在り」

連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、バルチック艦隊が対馬海峡を抜けてウラジオストクへ向かうと予測し、艦隊を朝鮮半島南端・鎮海湾に待機させていた。明治 38 年 5 月 27 日午前 5 時、哨戒中の信濃丸が「敵艦見ユ」の電信を発信。東郷は連合艦隊全艦を出撃させた。

午後 1 時 39 分、旗艦・三笠から「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の Z 旗が掲げられる。同 1 時 55 分、東郷は「東郷ターン」と呼ばれる前方への大回頭を敢行し、バルチック艦隊の進路を T 字に塞ぐ陣形を取った。これにより日本艦隊全艦の側舷砲が敵艦隊の先頭艦に集中砲火を浴びせる構図が成立し、戦闘開始わずか 30 分で旗艦スワロフが大破した。

戦闘は翌 28 日まで続き、日本側の魚雷艇による夜襲も加わって、バルチック艦隊は壊滅した。

戦果と損害 — 圧倒的勝利

バルチック艦隊連合艦隊
戦艦・装甲巡洋艦の損失撃沈 16 隻・捕獲 5 隻0 隻
全艦損失38 隻中 35 隻喪失または捕獲水雷艇 3 隻のみ
戦死者約 4,830 名117 名
捕虜約 6,000 名(含ロジェストヴェンスキー本人)

近代海戦史上に類を見ない一方的な勝利であった。ロジェストヴェンスキー提督は重傷を負って捕虜となり、後日東京で東郷の見舞いを受けた逸話が残る。

歴史的影響

1. 日露戦争の事実上の終結とポーツマス条約

海戦の結果、ロシア皇帝政府は戦争継続の手段を失った。明治 38 年 9 月 5 日、米国ポーツマスで講和条約が締結され(全権・小村寿太郎)、日露戦争は日本側の優勢で終結した。

2. 「アジアが西洋列強を破った」象徴

近代史上、アジアの国が欧州の大国を正面決戦で打ち破った最初の事例として、世界に衝撃を与えた。インドのネルー、トルコのアタチュルク、中国の孫文 — 後の植民地解放運動の指導者たちは、皆この海戦をアジア人の自信回復の起点として記憶した。

3. 日本海軍の地位確立

海戦で確立された「東郷ターン」「T 字戦法」は世界各国海軍の教科書に採用され、日本海軍は世界三大海軍の一角(米英日)として認められるようになった。一方で、この大勝利は後の太平洋戦争で「主力艦同士の艦隊決戦」幻想に繋がり、海軍戦略の桎梏ともなった。

4. 戦術の世界標準化

東郷ターンの瞬間の判断、信号運用、砲撃精度 — いずれも他国海軍が真似して研究する対象となり、第一次世界大戦期の海軍戦術設計に影響を与えた。

関連する偉人とその役割

加藤 友三郎(連合艦隊参謀長 / 海軍中将)

東郷平八郎の右腕として、戦闘指揮の実務を一手に担った。三笠の艦橋で東郷の隣に立ち、東郷ターン直前に東郷が「私は左 8 点(左 90 度)に変針する」と告げた際、瞬時に各艦への信号運用を組み立てた。冷静沈着な判断力で「沈黙の参謀長」と呼ばれ、海戦後の戦果集計・捕虜処遇・残敵掃討の指揮も統括した。

後年、加藤は第 21 代内閣総理大臣に上り、ワシントン軍縮会議(1922 年)で日本側全権として軍縮の制度化を推進、「日本海海戦の英雄が軍縮を主導する」という大正期独特の構図を作る。本霊園 1種ロ 12 号 1・6 側に眠る。

山本 権兵衛(海軍大臣 / 海軍大将)

開戦前夜の体制整備で決定的な役割を担った人物。明治 30 年代の海軍大臣として、戦艦三笠を含む六六艦隊(戦艦 6・装甲巡洋艦 6)の整備を主導、東郷平八郎を「常備艦隊司令長官 → 連合艦隊司令長官」へと抜擢した責任者でもあった。

開戦時の海軍大臣として、戦時動員・補給・人事を統括し、日本海海戦勝利の体制を後方で支えた。後年、第 16 代・第 22 代の内閣総理大臣を歴任、大正政変・関東大震災後の政界を率いる。本霊園 1種イ 9 号 26 側に眠る。

関連する作品

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 連載)は、日本海海戦をクライマックスとして描いた長編歴史小説で、本作品の主人公の一人・秋山真之は連合艦隊作戦参謀として丁字戦法の立案者の一人だった(秋山真之の兄・好古は本霊園 1種イ 19 号に眠る)。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011)では、海戦の場面が大規模 CG で再現され、東郷ターンの瞬間が映像化されている。

東京・三笠公園には、戦艦三笠が記念艦として保存されており、日本海海戦の現物史料を見学できる。

参考資料

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