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ワシントン海軍軍縮条約調印


海相・加藤友三郎が日本全権として調印、主力艦の対米英比率を 5:5:3 に制限。「ワシントン体制」の中核となり、大正末から昭和初期の国際秩序を支えた。

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Buy War Bonds Now Art.IWMPST10457 National War Savings Committee / Wikimedia Commons / Public domain
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条約

海相が自ら海軍を縮小させた条約

ワシントン海軍軍縮条約は、大正 11 年(1922 年)2 月 6 日、米国ワシントン D.C. のメモリアル・コンチネンタル・ホールで、米・英・日・仏・伊の五か国によって調印された軍縮条約である。主力艦(戦艦・巡洋戦艦、基準排水量 10,000 トン超かつ砲口径 8 インチ超)の保有比率を米英日仏伊 = 5:5:3:1.67:1.67、保有量上限を米 525,000 トン・英 525,000 トン・日 315,000 トン・仏 175,000 トン・伊 175,000 トンに制限した、第一次世界大戦後の国際秩序を象徴する条約である。

日本首席全権は加藤友三郎海相(本霊園に眠る)。海軍の軍人でありながら自らの海軍力を制限する側に立った、戦前日本では稀有な軍人政治家として、加藤の名はこの条約と不可分に結びついている。「国防は軍人の専有物にあらず」という加藤の言葉は、ワシントン会議帰国後の演説として伝えられ、戦前日本の軍人としての節度を最もよく表す名言として語り継がれている。

条約と並行して、四か国条約(米英日仏、太平洋諸島の現状維持)・九か国条約(中国の領土保全と門戸開放)が結ばれ、3 つの条約をまとめて「ワシントン体制」と呼ぶ。1920 年代の国際協調期を支えた枠組みとなり、満州事変(1931 年)で崩壊するまで約 10 年間、東アジアと太平洋の安定を保った。

背景 — 八八艦隊計画と日英米の建艦競争

第一次世界大戦後、米・英・日の三大海軍国は熾烈な建艦競争に突入していた。日本は大正 9 年(1920 年)に八八艦隊計画(戦艦 8 隻・巡洋戦艦 8 隻、すべて完成年から 8 年以内の最新艦で構成)を国会承認、米国はダニエルズ計画(戦艦 10 隻・巡洋戦艦 6 隻)を進めており、英国も対抗整備を進めていた。

日本の八八艦隊計画は国家予算の 3 割を海軍に投入する規模で、財政破綻が現実味を帯びていた。米英でも同様に巨額の建艦支出が問題化していた。米国大統領ハーディングは、軍縮を中心議題とする国際会議の開催を提案。これがワシントン会議である。

会議は大正 10 年(1921 年)11 月 12 日に開幕。日本全権は加藤友三郎海相(首席)・徳川家達(貴族院議長)・幣原喜重郎(駐米大使、後の戦後首相)。米国からはヒューズ国務長官、英国からはバルフォア元首相が出席した。

ヒューズ提案 — 「世界一の軍縮提案」

11 月 12 日の開会演説で、米国国務長官ヒューズは衝撃的な提案を行った。米英日の主力艦保有量を米 50 万トン・英 50 万トン・日 30 万トン(対米英 6 割)とし、建造中の艦も廃棄、向こう 10 年間の建艦休止。各国代表は唖然とした。会議に参加した記者は「30 分の演説で、長年の海軍計画が崩れ落ちた」と書き残している。

日本海軍内部の反応は割れた。加藤友三郎の方針は「対米 7 割なら受諾、6 割なら拒否」が原則だった。日本側随員の加藤寛治(後の連合艦隊司令長官)ら艦隊派は「最低 7 割が国防上の絶対線」と強硬に反対した。

加藤友三郎は本国・原敬首相(11 月 4 日に東京駅で暗殺、その後高橋是清が首相に)に何度も電報を送り、最終的に「対米 7 割で交渉、駄目なら 6 割で妥結すべし」との訓令を得た。加藤の判断軸は明快だった。「八八艦隊を作っても日本財政は破綻する。米国は今後さらに造艦力を伸ばすので、競争を続ければ将来比率はさらに悪化する。今のうちに 6 割で固定するのが国益だ」。

2 月 6 日 — 調印

大正 11 年(1922 年)2 月 6 日、ワシントン D.C. メモリアル・コンチネンタル・ホールで五か国海軍軍縮条約が調印された。日本側は加藤友三郎海相・徳川家達・幣原喜重郎の 3 名が署名。

条約の主な内容は次の通り。

| 項目 | 内容 | | 主力艦保有比率 | 米 5 : 英 5 : 日 3 : 仏 1.67 : 伊 1.67 | | 保有量上限 | 米 52.5 万t / 英 52.5 万t / 日 31.5 万t / 仏 17.5 万t / 伊 17.5 万t | | 主力艦個艦上限 | 排水量 35,000 トン、主砲 16 インチ | | 航空母艦保有量上限 | 米 13.5 万t / 英 13.5 万t / 日 8.1 万t / 仏 6 万t / 伊 6 万t | | 建艦休止 | 10 年間(1922-1931 年)、その後 1936 年まで自動延長可 | | 太平洋諸島の要塞化禁止 | 米国はフィリピン・グアム・サモア、日本は小笠原・千島・台湾・澎湖諸島 |

日本は条約により、建造中の戦艦 7 隻・巡洋戦艦 4 隻のうち、戦艦 2 隻(陸奥・長門)を完成、巡洋戦艦 2 隻を航空母艦に改装(加賀・赤城)、残りは廃棄処分とした。一方、太平洋諸島の要塞化禁止条項は、日本の南洋諸島の戦略的価値を高める結果となった(対米開戦時にこれが大きな意味を持つことになる)。

加藤の決断と海軍内対立

調印後、加藤は随行員一同に演説した。「国防は軍人の専有物にあらず。経済の許す範囲内で軍備を整え、外交によって戦争を防ぐことこそ、近代国家の責務である」。会議帰国後の演説でも同様の趣旨を繰り返し、これが昭和初期まで戦前日本の海軍政策の原則となった。

しかし条約は、海軍内部に深い対立を残した。加藤友三郎財部彪(山本権兵衛の女婿、本霊園関連)・米内光政らの条約派と、加藤寛治・末次信正・南雲忠一ら艦隊派が対立。後の昭和 5 年(1930 年)ロンドン軍縮会議では、艦隊派が「統帥権干犯」を旗印に内閣を攻撃する事態となる。

加藤友三郎本人は条約調印から半年後の大正 11 年(1922 年)6 月、第 21 代内閣総理大臣に就任。シベリア撤兵・行政整理・軍備縮小を断行したが、大腸癌を抱えており、翌大正 12 年(1923 年)8 月 24 日に首相在任のまま死去。享年 62。死の 1 週間後に関東大震災が発生する。

歴史的影響

  1. ワシントン体制の成立 海軍軍縮条約・四か国条約・九か国条約の 3 つで構成されるワシントン体制は、1920 年代の東アジア・太平洋の国際秩序の基盤となった。原敬・高橋是清・加藤友三郎加藤高明と続く政党内閣期の外交を支えた枠組みである。

  2. 日本財政の救済 八八艦隊計画の中止により、日本は 1920 年代に軍事費を削減し、財政再建の余地を得た。これがなければ昭和恐慌(1927 年)以前に日本財政は破綻していた可能性が高い。

  3. 統帥権干犯問題の伏線 海軍内部の対立は、8 年後のロンドン軍縮条約(1930 年)で爆発する。浜口雄幸内閣に対する「統帥権干犯」攻撃は、軍部独走への突破口となり、満州事変五・一五事件二・二六事件へと連なるテロと軍部独裁の時代を準備した。

  4. 太平洋諸島要塞化禁止の影響 米国がグアム・フィリピンの要塞化を放棄したことで、太平洋戦争初期(1941-1942 年)に日本軍がこれら諸島を短期間で占領できた。一方、日本の小笠原諸島要塞化禁止も、戦争後期の硫黄島陥落(1945 年)につながる。条約の長期的影響は、20 年後の戦争にまで及んだ。

関連する偉人とその役割

加藤 友三郎(日本首席全権 / 海軍大臣)

広島藩出身、海軍兵学校・海軍大学校卒の海軍大将。日露戦争の連合艦隊参謀長(東郷平八郎司令長官の参謀)としてバルチック艦隊撃滅を支え、第一次大戦期に海軍大臣に就任、八八艦隊計画を推進した。

ワシントン会議では、自ら推進した八八艦隊計画を放棄する側に回るという矛盾を引き受けた。「軍備と経済のバランスを取るのが軍人の責任」という信念を貫き、海軍内の艦隊派の反発を押し切って対米 6 割の比率を呑んだ。

調印後 4 か月で首相に就任、軍備縮小・シベリア撤兵・行政整理を断行した。だが大腸癌に侵されており、首相在任のまま大正 12 年(1923 年)8 月 24 日に死去。享年 62。彼の死後 1 週間で関東大震災が発生、後継組閣は山本権兵衛に引き継がれる。本霊園 1 種ロ 12 号 1・6 側に眠る。同区画にはポーツマス条約小村寿太郎の墓もあり、明治の小村と大正の加藤、外交による戦争予防の二人の主導者がここに並ぶ。

関連する作品

  • 半藤一利『ワシントン会議』(PHP 文庫) — 加藤友三郎を中心にワシントン会議の駆け引きを再構成
  • NHK スペシャル『海軍の選択・ワシントン会議の 100 日』 — 加藤の決断を中心とする歴史ドキュメンタリー
  • 阿川弘之『軍艦長門の生涯』(新潮文庫) — ワシントン条約で建造続行が認められた戦艦長門の物語を通して、条約の歴史的意味を描く

参考資料

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