関税自主権回復(日米通商航海条約改正)
外相・小村寿太郎が日米新通商航海条約に調印、関税自主権を回復。陸奥宗光の治外法権撤廃(1894)と合わせて、半世紀にわたる不平等条約改正が完了した。
幕末以来 53 年の不平等条約、ついに完全終了
関税自主権回復は、明治 44 年(1911 年)2 月 21 日、ワシントンで外相・小村寿太郎が日米新通商航海条約(改正日米通商航海条約)に調印し、安政 5 年(1858 年)以来 53 年にわたって日本を縛ってきた不平等条約が、ここに完全に消滅した出来事である。
すでに陸奥宗光外相が明治 27 年(1894 年)に治外法権(領事裁判権)を撤廃する改正日英通商航海条約を締結しており、不平等条約の片翼は折られていた。残されていたもう一つの足枷 — 関税協定主義(日本が独自に関税率を決められない仕組み)を、小村寿太郎が明治の最終局面でついに撤去した。日本が「形式的にも実質的にも」完全な独立国となった瞬間である。
この条約改正の半年後、明治 44 年(1911 年)11 月 26 日、小村は結核により 56 歳で世を去る。日露戦争を終わらせ、韓国併合を仕上げ、不平等条約を完全に終わらせた直後の死だった。「自分の人生の仕事を全部やり終えた後の死」と評される稀有な政治家のキャリアの幕切れである。
背景 — 安政五カ国条約と関税自主権の喪失
幕末の安政 5 年(1858 年)、徳川幕府は米・英・仏・蘭・露との間で安政五カ国条約を締結した。日米修好通商条約をはじめとするこれらの条約には、二つの致命的な不平等条項が含まれていた。
第一に、領事裁判権(治外法権)。日本国内で外国人が起こした犯罪を、日本の法廷ではなく当該国の領事裁判官が裁くという仕組み。明治日本にとって主権侵害そのものだった。
第二に、協定関税制度。日本の関税率は条約で固定され、日本側が独自に変更できなかった。輸入関税は平均 5% 程度に抑え込まれ、明治政府が産業保護や財政基盤の整備のために関税を上げることは事実上不可能だった。
この二つの撤廃が、明治政府にとって半世紀にわたる外交課題となる。井上馨・大隈重信・青木周蔵らが鹿鳴館外交や条約改正交渉に苦闘し、いずれも国内反対や列強の頑迷さで挫折してきた。陸奥宗光が明治 27 年(1894 年)の日英通商航海条約改正で領事裁判権撤廃を達成、これが第一段階の決着だった。
第二段階 — 関税自主権交渉
陸奥が締結した日英通商航海条約(1894 年)は、領事裁判権撤廃の代償として、関税自主権については一部のみ回復、完全な自主権獲得は 12 年後の条約失効時(1911 年)まで持ち越しとなっていた。つまり明治政府は、明治 44 年(1911 年)を期限として「ここで完全に自主権を取り戻す」という大目標を最初から共有していた。
その期限到来の年に外相を務めていたのが小村寿太郎である。第二次桂太郎内閣(明治 41-44 年)の外相として、ポーツマス条約後の対露関係調整・日英同盟改訂・韓国併合などを次々と仕上げてきた小村にとって、関税自主権回復は外交家としての最後の頂上だった。
2 月 21 日 — ワシントンでの調印
明治 44 年(1911 年)2 月 21 日、ワシントンの米国国務省で、駐米大使・内田康哉(本国訓令により全権代行)と米国国務長官フィランダー・ノックスの間で、新日米通商航海条約が調印された。日本側を実質的に指揮していたのは東京の小村外相である。
条約は次の要点を含む。
| 条項 | 内容 | | 関税自主権 | 日本は自国の関税率を完全に独自決定できる | | 最恵国待遇 | 通商上の最恵国待遇を相互に保障 | | 効力期間 | 12 年(1923 年まで)、その後は通告 6 か月で改廃可 |
米国を皮切りに、3 月にドイツ・英・伊・仏・露・墺などとも同様の改正条約が次々と締結されていく。これにより、日本のすべての通商条約から関税協定主義が撤廃された。安政以来 53 年、世代でいえば三世代をまたいだ不平等条約改正が、明治 44 年春に完全終結したのである。
同年の小村と「独立国としての日本」
関税自主権回復を見届けた小村は、外相を辞任する間もなく病床に伏した。長年の激務と結核の進行で、体力はすでに限界を超えていた。
「私は、不平等条約のあった日本の外相を最後に務めた人間として、それを完全に終わらせて死ねるなら本望だ」 — 同時代の回想にこのような小村の言葉が伝わる。明治 44 年(1911 年)11 月 26 日、葉山で死去。享年 56。日英同盟・ポーツマス条約・韓国併合・関税自主権回復という、明治外交の最重要 4 ステップを一人で仕上げた直後の死だった。
歴史的影響
-
名実ともに独立国としての日本 関税自主権回復により、日本は形式的にも実質的にも完全な主権国家となった。これは日清・日露戦争の戦勝、列強同盟の構築、植民地獲得と並ぶ、明治日本の最大の達成の一つである。
-
産業保護関税の実施 関税自主権を獲得した日本は、ただちに産業保護関税の導入に動いた。綿糸・綿布・鉄鋼などの国内産業保護のため輸入関税を引き上げ、第一次世界大戦期の重化学工業発展の基盤を整えた。
-
明治外交プログラムの完結 岩倉具視・大久保利通・伊藤博文・井上馨・陸奥宗光・小村寿太郎と続いた明治外交の中核プログラムは、ここで完結する。次世代の課題はワシントン体制(1922 年)以降の国際協調と軍縮へと移っていく。
-
韓国併合・関税自主権回復・小村の死 1910 年 8 月の韓国併合、1911 年 2 月の関税自主権回復、1911 年 11 月の小村寿太郎の死 — この 1 年 3 か月で、明治外交の小村プログラムは完成し、その立案者・実行者である小村本人の生涯も終わった。明治 44 年は、明治外交が一つの完成形に達した記念碑的な年として、今も歴史に刻まれている。
関連する偉人とその役割
小村 寿太郎(外務大臣)
宮崎県日南市飫肥出身、ハーバード大学法学部卒の外交官。第一次・第二次桂太郎内閣の外相として日英同盟(1902 年)、ポーツマス条約(1905 年)、韓国併合(1910 年)、関税自主権回復(1911 年)と、明治外交の最重要案件を連続して仕上げた。
関税自主権回復は、生前最後の大仕事。条約調印を見届けた半年後の同年 11 月、結核で死去。「明治日本を独立国として完成させた男」として、後世に語り継がれることになる。本霊園 1 種ロ 12 号 1・6 側に眠る。