ポーツマス条約調印
外相・小村寿太郎が日本側全権として米ポーツマスでロシア全権ウィッテと講和条約に調印。日露戦争が終結、賠償金なき講和に世論は激怒し日比谷焼打事件へ。
日露戦争の幕引き、そして日比谷の暴動
ポーツマス条約調印は、明治 38 年(1905 年)9 月 5 日、米国ニューハンプシャー州ポーツマス海軍工廠で、日本全権・小村寿太郎外相とロシア全権・セルゲイ・ウィッテ伯爵が日露講和条約に署名した出来事である。
20 か月続いた日露戦争(明治 37-38 年)が終結し、日本は世界三大強国の一角に踊り出た一方、賠償金が取れなかったことに激怒した東京市民が日比谷で焼打事件(同月 5 日夜)を起こし、戒厳令が敷かれる事態にもなった。「戦争の勝利」と「国民の落胆」が同時に押し寄せた、明治外交の最も劇的な日である。
背景 — 1905 年春・夏の戦況と仲介の提案
日露戦争は明治 38 年に入って大きな転換期を迎えていた。1 月の旅順陥落、3 月の奉天会戦勝利、5 月 27-28 日の日本海海戦でバルチック艦隊撃滅 — 軍事的には日本側の優勢が決定的になっていた。
しかし、日本の戦費は限界に達していた。戦時公債は約 17 億円(当時の国家予算の数年分)、戦死者は約 8 万 4,000 名、戦傷病者は約 50 万名。これ以上戦争を続ければ国家財政が破綻する状況だった。
一方ロシアも、革命前夜の社会不安(1905 年 1 月血の日曜日事件、6 月戦艦ポチョムキン号反乱)で、戦争継続の余裕がなかった。
このタイミングで仲介を申し出たのが、米国大統領セオドア・ルーズベルトである。ルーズベルトは黄禍論的偏見も持つ人物だったが、戦略的バランス感覚から「日本もロシアもこれ以上強くなりすぎない講和」を望み、6 月 9 日に正式に仲介を申し出た。
ポーツマス交渉 — 1 か月の駆け引き
明治 38 年(1905 年)8 月 10 日、米国ニューハンプシャー州ポーツマスで講和会議が開幕。両国の代表団は:
| 日本側全権 | 小村寿太郎(外相)・高平小五郎(駐米公使) | | ロシア側全権 | セルゲイ・ウィッテ(元蔵相、伯爵)・ローゼン(駐米大使) |
日本側の要求は 12 項目に及んだ:
- 朝鮮における日本の優越権承認
- 満州からの両軍撤退
- 遼東半島租借権(旅順・大連)の譲渡
- 南満州鉄道(長春-旅順間)の譲渡
- 樺太の譲渡
- 賠償金 30 億円
- 沿海州沿岸の漁業権
- 黄海・日本海・オホーツク海でのロシア艦隊制限
- 中立国港での捕獲ロシア艦の引渡 など
ロシア側は「敗戦国としての扱いは受けない」「賠償金は払わない」「領土も渡さない」という強硬姿勢で臨んだ。交渉は難航し、特に賠償金と樺太譲渡で行き詰まる。
最終的に小村は、本国政府(桂太郎首相・山県有朋元老)からの「妥協してでも条約を成立させよ」の電報を受けて譲歩、賠償金請求を放棄し、樺太は南半分(北緯 50 度以南)のみの割譲で合意に達した。
9 月 5 日 — ポーツマス海軍工廠での調印
明治 38 年(1905 年)9 月 5 日午後 3 時 47 分、ポーツマス海軍工廠の General Stores Building にある会議室で、小村寿太郎とウィッテが講和条約に署名した。会議室の机には、ロシア皇帝ニコライ 2 世から授かったウィッテ全権使節の信任状と、明治天皇から授かった小村全権の信任状が並んでいた。
条約は全 15 条と追加条項からなり、日本は以下を獲得した:
- 朝鮮における優越権承認
- 遼東半島租借権(旅順・大連)
- 南満州鉄道(長春-旅順間)
- 樺太南半分(北緯 50 度以南)
- 沿海州沿岸の漁業権
賠償金は ゼロ。これが日本国民の怒りを呼ぶことになる。
同日夜 — 日比谷焼打事件
調印が報じられた同日 9 月 5 日夕方、東京・日比谷公園で「ポーツマス条約反対国民大会」が開催された。主催は河野広中ら旧自由党系の政治家たち。
新聞各紙は条約締結前から「賠償金を取れ」「樺太全島を取れ」と世論を煽っており、参加者は約 3 万人に膨れ上がった。「弱腰外交」「腰抜け政府」「小村を切れ」のスローガンで盛り上がった群衆は、警備警察と衝突。日比谷公園を包む鉄柵を破って暴徒化し、近隣の交番・警察署・新聞社(政府寄りの『国民新聞』)・キリスト教会・公使館を襲撃した。
夜まで続いた暴動は、東京市内に拡大。死者 17 名、負傷者 2,000 名以上、交番襲撃 200 件以上、教会襲撃 13 件。9 月 6 日、桂太郎首相は東京市・神奈川県に戒厳令を布告した。戒厳令は同年 11 月 29 日まで続いた。
講和の成果と「世論との乖離」
冷静に見れば、ポーツマス条約は日本にとって相当の成果だった:
しかし、戦費を国民が負担し、戦死者を出した代償として、国民は「日清戦争の下関条約で得た賠償金 2 億両(約 3 億円)」と同等以上を期待していた。賠償金ゼロは「戦争の犠牲が報われない」という強い不満を生んだ。
この「世論との乖離」は、後の昭和期の外交(ワシントン軍縮・ロンドン軍縮への国内反発)へとつながる、戦前日本外交の構造的問題の起点でもあった。
歴史的影響
1. 日本の世界三大強国入り
ポーツマス条約により、日本は「ロシア帝国を破った国」として国際的地位を確立。1902 年の日英同盟と相まって、欧米列強と対等に交渉する立場を得た。日露戦争前は二流国扱いだった日本が、わずか 1 年で世界政治の主要プレイヤーとなった。
2. アジアからの注目と植民地解放運動の象徴
「アジアの国がヨーロッパの大国に勝てる」という事実は、インド(ガンディーは日露戦争を「アジアの自信回復の起点」と語った)、中国(孫文)、ベトナム(ファン・ボイ・チャウの東遊運動)、トルコ・エジプト・ペルシャの民族運動に大きな影響を与えた。
3. 米国仲介の限界
ルーズベルトが仲介に成功したことでノーベル平和賞(1906 年、米国大統領初)を受賞したが、日米関係はその後悪化していく。日本人移民排斥(米国西海岸)、満州の門戸開放を巡る対立、第一次世界大戦後のワシントン軍縮、そして 36 年後の真珠湾攻撃 — 太平洋戦争への伏線は、ポーツマス会議の翌年から既に始まっていた。
4. 「外交での妥協は世論に裏切られる」教訓
小村寿太郎・桂太郎は「現実的に取れる最大限を取った」と判断したが、国民は理解しなかった。これは後の昭和期の外交家・松岡洋右らに「世論を見ず突き進む」傾向を生む遠因となる(三国同盟締結の頃の松岡発言にも、ポーツマス条約への屈辱感が現れる)。
関連する偉人とその役割
小村 寿太郎(日本側全権 / 外務大臣)
宮崎県出身、第一高等学校・東京帝国大学を経て司法省・外務省に進んだ生え抜きの外交官。明治 33 年(1900 年)から外務大臣を務め、日英同盟締結(1902 年)、日露戦争開戦時の対米露交渉、そして日露戦争終結のポーツマス会議と、明治外交の最大の局面を一手に担った。
身長 150cm 台と小柄ながら、英語に堪能でユーモアもあり、ウィッテからも「最も恐ろしい交渉相手」と評された。ポーツマスでは「賠償金ゼロでも条約を成立させて戦争を終わらせる」という政府方針を、自らの政治生命と引き換えに実行した。
帰国後は日比谷焼打事件の余波で身辺警護を必要とするほど世論の反発を受けたが、明治 41 年(1908 年)に再び外相、明治 43 年(1910 年)に韓国併合の実施、明治 44 年(1911 年)に関税自主権回復で不平等条約改正を完遂した。本霊園 1種ロ 12 号 1・6 側に眠る。
関連する作品
- 司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載) — ポーツマス交渉の場面が本作のクライマックスの一つ、小村寿太郎の苦闘が中心に描かれる
- NHK スペシャルドラマ『坂の上の雲』(2009-11 年) — 竹中直人が小村寿太郎を演じる、ポーツマス会議のシーンを実物大セットで再現
- 吉村昭『ポーツマスの旗』(新潮文庫) — 小村寿太郎を中心に、ポーツマス交渉の駆け引きを記録文学として描く
ポーツマス会議が行われた米国 New Hampshire 州 Portsmouth Naval Shipyard の旧管理棟は現存し、年に数日、講和会議室が一般公開される。日本側からも研究者や歴史愛好家が訪れる場所である。