日英同盟締結
駐英公使・林董が日本側全権としてランズダウン外相と調印。極東におけるロシア南下への共同対抗を約す、明治日本初の対等同盟。
アジア最初の列強同盟 — 「光栄ある孤立」を捨てた英国と組んだ日本
日英同盟は、明治 35 年(1902 年)1 月 30 日、ロンドンの英国外務大臣ランズダウン侯爵の私邸で、駐英公使・林董と英国外相ランズダウンが調印した条約である。極東におけるロシアの南下に共同して対抗することを目的とした、攻守同盟である。
19 世紀末以来「光栄ある孤立(splendid isolation)」を国是としてきた大英帝国が、初めて他国と結んだ平時の同盟であり、同時に、アジアの非白人国家がヨーロッパ列強と対等な同盟関係に立った世界史上初めての条約でもあった。日清戦争(1894-95 年)で清国を破ったとはいえ、三国干渉(1895 年)で遼東半島を返還させられた日本が、わずか 7 年でここまで国際的地位を引き上げたことを象徴する一日であった。
背景 — 三国干渉から義和団事件、そしてロシアの満洲占領
明治 28 年(1895 年)の三国干渉以降、日本の対外関係はロシアを最大の仮想敵とする方向で固まっていった。ロシアは日清戦争で日本が得た遼東半島の返還を要求した後、明治 31 年(1898 年)に自らその遼東半島を清国から租借し、旅順・大連を軍港・商港として整備した。日本国民の間には「臥薪嘗胆」の合言葉が広まる。
明治 33 年(1900 年)の義和団事件(北清事変)で、ロシアは混乱に乗じて満洲全域に兵を進駐させた。事件鎮圧後も撤兵せず、満洲を事実上占領下に置いた。朝鮮半島も含めて極東でのロシアの南下が現実味を帯び、日本の安全保障は危機に立たされた。
このとき日本政府内では、対露政策をめぐって二つの路線が並立していた。元老・伊藤博文と井上馨は「日露協商」を主張し、ロシアと話し合いで朝鮮・満洲の利権を分け合う方針を取った(満韓交換論)。一方、首相・桂太郎と外相・小村寿太郎、元老・山県有朋は「日英同盟」を主張、ロシアと組むのではなく英国と組んで対抗する方針を取った。
英国側にも事情があった。世紀末以来、ドイツ帝国の台頭、ボーア戦争での国際的孤立、米国の太頭、そして極東でのロシア南下 — 大英帝国が一国で世界を支える時代は終わりつつあった。極東で対露牽制パートナーを得ることは、英国にとっても合理的な選択肢に浮上していた。
ランズダウン外相邸での秘密交渉
駐英公使・林董は明治 33 年(1900 年)にロンドン着任以降、英国外相ランズダウン侯と非公式の意見交換を重ねていた。明治 34 年(1901 年)秋、本国の桂内閣からの訓令を得て、林は本格的な同盟交渉に入った。
交渉の最大の論点は「適用範囲」と「自動参戦条項」の二点であった。林は、英国が極東以外(欧州・インド)の利害でも日本を引き込むことを警戒し、適用範囲を「極東」に限定するよう主張した。また、第三国 1 国との戦争では中立、2 国以上との戦争では参戦という二段構えの構造を提案した。
伊藤博文がペテルブルクで対露協商交渉を進めるなか、桂内閣はその動きを横目に見ながら日英同盟交渉を進めた。明治 35 年(1902 年)1 月 30 日、ロンドンのランズダウン外相私邸で、林董と英国外相ランズダウンが日英同盟協約に調印した。
条約の主要内容
協約は前文と全 6 条からなり、骨子は次の通り:
- 清国・韓国の独立と領土保全の確認
- 日本の韓国における政治・経済・軍事上の利益、英国の清国における利益を相互に承認
- 締約国の一方が第三国 1 国と交戦する場合、他方は厳正中立を守り、他国の参戦を阻止するよう努める
- 締約国の一方が第三国 2 国以上と交戦する場合、他方も参戦する義務を負う
- 期限は 5 年、その後も状況次第で延長(実際には 1905・1911 年に改定、1923 年のワシントン会議で解消)
特に重要なのが「2 国以上との戦争では参戦」の条項である。これにより、日本がロシアと戦争になった場合、フランス(露仏同盟締結国)が対日参戦すれば、英国が自動的に日本側に参戦することになる。結果として、フランスの対露参戦は事前に抑止された。
歴史的影響
- 日露戦争への直接の前提
明治 37 年(1904 年)2 月の日露戦争開戦時、日本はフランスの参戦を心配せずに済んだ。英国の中立により、ロシアのバルチック艦隊は喜望峰経由の長大な航海を強いられ、英領植民地での補給を断たれた。日露戦争勝利の最大の外交的基盤を、日英同盟が用意した。
- 戦時資金のロンドン金融市場での調達
日露戦争の戦費はロンドンとニューヨークで起債された外債で賄われた。日英同盟がなければ、ロンドン市場で日本国債を売ることは不可能に近かった。高橋是清が日本銀行副総裁としてロンドンに渡り、外債発行を成功させたのも、同盟という制度的裏付けがあったからこそである。
- 国際社会における日本の地位確立
日清戦争後の三国干渉で「アジアの小国」扱いされていた日本が、欧州の超大国・大英帝国と対等な同盟を結んだ事実は、国際社会の対日認識を一変させた。日露戦争勝利と相まって、日本は世界の一等国の一角に数えられるようになる。
- アジア諸国への波紋
「白人国家と対等に同盟を結んだ非白人国家」というモデルは、インド・中国・トルコの民族運動指導者に強い印象を与えた。日露戦争勝利と並んで、20 世紀前半のアジア・ナショナリズム勃興の伏線となる。
関連する偉人とその役割
林 董(駐英公使 / 後の外務大臣)
下総国佐倉藩医・佐藤泰然の五男として生まれ、幕末に英国留学を経験した蘭学・英学の名家出身。岩倉使節団にも同行し、明治外務省で対清・対露交渉を経て駐英公使に就任した、英国通の生え抜き外交官である。
ロンドンの現場で 1 年以上にわたって秘密交渉を担当し、適用範囲・参戦条件の細部を粘り強く詰めて、1902 年 1 月 30 日の調印に至らせた。「条約の文言を一つひとつ刻み込んだ男」として、明治外交史で日英同盟の現場責任者と位置づけられる。本霊園 2種イ10号に眠る。
小村 寿太郎(外務大臣)
日向飫肥の小藩士出身、ハーバード大学法学部に留学した生え抜き外交官。桂太郎首相とともに「日英同盟派」の中核を成し、伊藤博文・井上馨の「日露協商派」と政府内で対立しながら、同盟締結方針を主導した本国側責任者である。
ロンドンの林董を訓令で支え、対露戦争前夜の外交基盤を整えた。3 年後のポーツマス条約(1905 年)では自ら全権大使として日露戦争を終結させ、明治 44 年(1911 年)には関税自主権回復で不平等条約改正を完遂する。本霊園 1種ロ12号1・6側に眠る。
関連する作品
司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、日英同盟の交渉過程が小村寿太郎・林董の両人物を通じて描かれる。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)でも、ロンドンの林董とランズダウンの会談シーンが映像化されている。