何 礼之
が のりゆき
Ga Noriyuki
長崎の唐通事から日本初期の英学者へ。木戸孝允・伊藤博文・井上馨らに英語を教え、明六社同人として明治啓蒙運動を担った教育者・元老院議官。
長崎の唐通事から、明治の英学者・啓蒙家へ
何礼之は、長崎の 唐通事(明清交易の中国語通訳官)の家系に生まれ、幕末・明治期に 英語教育を通じて多数の維新志士・近代日本の指導者を育てた啓蒙家である。
長崎で開いた英学校には、木戸孝允(桂小五郎)・伊藤博文・井上馨・前島密ら、後の明治政府の中枢人物が学びに来た。フルベッキ(青山霊園で既登録)と並んで、幕末の長崎が明治日本の指導者群を育てた最大の教育拠点を作った人物である。
明治政府では 元老院議官・宮内省顧問・貴族院議員として国政に関与。明六社(福澤諭吉・西周・森有礼・中村正直ら明治啓蒙運動の中核学会)の同人として、近代日本の 思想・教育の制度化を支えた。
「何」という姓は、長崎の唐通事(中国語通訳)の家系を示す。何家は 明から渡来した華人の系譜で、長崎独特の 唐人街文化を代表する家であった。
長崎の唐通事の家、英語を学ぶ
天保 11 年(1840 年)3 月 20 日(陽暦 4 月 22 日)、肥前国長崎(現・長崎市)に 唐通事・何幸五(なか こうご)の子として生まれる。「何」家は明清交易の通訳・貿易仲介を世襲した華人系家系で、中国語(明清語)に精通していた。
幕末、長崎には オランダ・米国・英国・フランスの領事館・商人が来航するようになり、唐通事だけでは対応しきれず、英語の習得が急務となっていた。何礼之は 長崎奉行所の英学修業所に学び、当時最先端の英語教育を受けた。
安政 5 年(1858 年)、18 歳で 唐通事の家業を継ぎつつ、英語通訳官としても活動を開始。長崎で 英学校(後の英語伝習所)を主宰し、藩士・浪人の入門を許した。
木戸孝允・伊藤博文・井上馨らを教える
文久 2 年(1862 年)頃から、何礼之の英学校には 長州藩・薩摩藩・幕府方の青年志士が多数入門した:
- 木戸 孝允(桂小五郎) — 後の長州藩参政、明治政府の参議
- 伊藤 博文 — 後の初代内閣総理大臣
- 井上 馨 — 後の外務大臣
- 前島 密 — 後の郵便制度創設者
- 陸奥 宗光 — 後の外務大臣
「長崎で英語を学ばないと一流の志士になれない」という風潮が幕末末期に広まり、何礼之の塾は フルベッキの致遠館と並ぶ、長崎の二大英学塾として知られた。
明治の元勲群の多くが 何礼之・フルベッキ両者を師として持ったことは、幕末・長崎が明治日本の知的揺籃であった事実を雄弁に物語る。
明治政府で元老院議官
明治新政府発足後、何礼之は 太政官・翻訳局・司法省を経て、明治 8 年(1875 年)、元老院議官(立法諮問機関)に就任。翻訳・法制・外交の各分野で実務を担った。
特に重要なのは 西洋政治学・経済学・法学の 翻訳事業である。フランス・英国・米国の政治書を多数翻訳し、明治初期の 西洋思想の輸入に最大級の貢献をした。
明六社 — 啓蒙運動の中核
明治 6 年(1873 年)、明六社(森有礼提唱の啓蒙学会、福澤諭吉・西周・中村正直・西村茂樹・加藤弘之ら同人)に参加。明六雑誌(明治 7-8 年/1874-75 年刊行)に 西洋政治制度・教育論などを寄稿した。
明六社は明治啓蒙運動の最高峰で、何礼之は 「英学者として最先端」の立場で、福澤諭吉(慶應義塾)・西周(西洋哲学)・森有礼(教育・外交)らと並ぶ知的指導者の一人となった。
大正 12 年 12 月 2 日、東京で逝去
大正 12 年(1923 年)12 月 2 日、東京で死去。享年 83。明治 6 年の明六社結成から 50 年を生き、明治の啓蒙運動の最後の生き残りの一人となった。
同年 9 月の 関東大震災で東京は荒廃しており、その混乱の中での死去であった。
親族の著名人
- 子・何 盛三 — 言語学者、東京帝国大学教授
- 何家は長崎の唐通事から明治の知識人へという、近代日本独特の家系を体現した
逸話・エピソード
唐通事の家の異端児 — 中国語より英語
「何」家は明清交易の中国語通訳官を世襲した家系で、礼之も父・幸五から徹底した北京官話の教育を受けて育った。だが幕末の長崎で英米仏の領事館が次々に開かれていく光景を見て、礼之は家業の漢学から英学へと舵を切る。父からは「先祖伝来の唐通事を捨てるのか」と叱責されたが、「父上、これからの長崎は英語を話せねば商売にならぬ」と返したと伝わる。後年、伊藤博文・井上馨ら長州の青年志士が訪ねてきたとき、礼之はわずか 20 代半ばで彼らの英語教師となっていた。
弟子・伊藤博文との師弟関係
明治政府発足後、伊藤博文は政界の階段を駆け上がり、何礼之は元老院議官の地位で止まった。立場は完全に逆転したが、伊藤は生涯にわたって何を「先生」と呼び続けたと伝わる。総理大臣となった伊藤が官邸に何を招き、長崎時代の英語教科書を懐かしんだという挿話が残されている。明治日本の頂点に立った政治家が、長崎の唐通事の家の青年から受けた英語教育を、忘れていなかった証である。
青山霊園に眠る
何礼之の墓は、青山霊園 1種イ3号4側。同じ「1種イ3号」の区画には、松岡洋右(1 側、外相、既登録)、東郷茂徳(4 側、外相、既登録)が眠る。
幕末長崎で木戸孝允・伊藤博文・井上馨らに英語を教えた男が、明治・昭和の外相たちと同じ区画に眠っている — 「英語が明治日本の外交を作った」という近代日本の根本構造を、地形に刻む配置となった。
フルベッキ(本日既登録)とともに 長崎が明治日本を育てた証人として、何礼之の墓所もまた、明治国家の作り手たちと同じ青山霊園に眠ることになった。




