林 権助 (1860-1939)の肖像
林 権助の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

林 権助

はやし ごんすけ

Hayashi Gonsuke

日露戦争前後の対韓外交を実務面で支えた駐韓公使。会津戦争で家族離散の悲劇を経験した会津藩士の長男。

生没年
出身地
陸奥国会津若松(現・福島県会津若松市)
死没地
東京都
時代
明治・大正
役職
外交官
爵位
男爵
出身校
東京帝国大学法学部
区画
1種ロ8号1〜14側
タグ
外交官 / 駐韓公使 / 日韓協約 / 会津若松 / 男爵

会津戦争の落城を 8 歳で経験した外交官

林権助は、明治後期から大正期にかけて日本外交の最前線、特に対韓外交を実務で支えた外交官である。駐韓特命全権公使として、日韓議定書(1904 年 2 月)・第一次日韓協約(1904 年 8 月)・第二次日韓協約(1905 年 11 月、保護条約)・第三次日韓協約(1907 年 7 月)という、日露戦争前後の対韓外交の四つの主要条約交渉に当事者として関与した。

林が外交官として最も評価されたのは、伊藤博文ら本国の元勲が描く対韓政策を、ソウルの現場で粘り強く実行に移す実務能力であった。同時に、彼は会津戦争時に 8 歳で家族離散・落城の悲劇を経験した会津藩士の子であり、近代日本の「敗者の側から立ち上がった官僚」の代表的事例でもある。会津出身者が薩長閥に占められた明治政府のなかで官界に進み、外務省の枢要なポストに就いたこと自体、林の生涯の重要な意味をなしている。

駐英大使、宮内省外事部長などを歴任し、男爵に叙された。回顧録『わが七十年を語る』(1936 年)は、会津戦争体験から日露外交までを一人の人生で語った貴重な証言として、明治史研究に欠かせない一冊となっている。

鶴ヶ城落城 — 8 歳の戦争体験

万延元年(1860 年)2 月 2 日(新暦 1860 年 3 月 23 日)、林権助は陸奥国会津若松の会津藩士・林又三郎の長男として生まれた。父は会津藩の有能な藩士で、幕末動乱のなかを生き延びた人物である。

慶応 4 年(1868 年)8 月から 9 月、会津戦争。新政府軍は会津若松城(鶴ヶ城)を包囲し、約 1 か月にわたる籠城戦の末に会津藩は降伏した。城下は焼かれ、藩士の家族は離散。白虎隊の自刃、家老西郷頼母の家族の集団自決など、会津戦争の悲劇は近代日本史で繰り返し語られてきた通りである。

このとき林権助は 8 歳。父は戦場にあり、母と兄弟姉妹は離散して苦難の避難生活を送った。鶴ヶ城落城時の記憶は、後の林の回顧録に生々しく綴られている。会津藩は戦後、下北半島の斗南藩(現・青森県むつ市周辺)へ転封され、藩士の家族は飢えと寒さで多数が死んだ。林家もこの転封に巻き込まれ、苦難の数年を耐えた。

「会津の子は、明治政府の禄を食めぬ」 — 戦後の会津藩士は薩長への屈服を強いられ、官界・軍界に進む道は事実上閉ざされた時期もあった。そのなかから、新島襄(同志社)、山川健次郎(東大総長)、柴五郎(陸軍大将)、そして林権助のように、後の明治日本を担う人材が次々と立ち上がっていった。

帝大法学部 — 外務省入省

林は苦学のすえに上京し、第一高等中学校を経て帝国大学(現・東京大学)法学部に進学した。卒業後、明治 20 年代に外務省に入省し、語学力と粘り強い実務能力で頭角を現した。仁川領事、釜山領事として朝鮮半島での実務経験を積み、対韓外交の現場感覚を養った。

明治 33 年(1900 年)、林は 40 歳で駐韓特命全権公使に任命された。この時期の朝鮮半島は、清・ロシア・日本の三国が影響力を競う緊張地帯であり、駐韓公使はもっとも神経をすり減らすポストの一つだった。

日露戦争前後 — 四つの日韓協約

明治 37 年(1904 年)2 月、日露戦争開戦。林は開戦直後の 2 月 23 日、大韓帝国政府との間で「日韓議定書」を締結した。これは戦時下における日本の韓国内軍事行動を可能にする協定であった。同年 8 月、第一次日韓協約。日本人財政顧問・外交顧問の韓国政府への配置が決まる。

明治 38 年(1905 年)11 月、第二次日韓協約(乙巳保護条約)。日露戦争に勝利した日本は韓国の外交権を接収し、統監府の設置を決定した。この交渉では伊藤博文が特命全権大使として漢城(現・ソウル)に乗り込み、林公使は伊藤の現地カウンターパートとして交渉に同席した。韓国側の激しい抵抗のなか、御前会議で大臣たちが次々と意見を求められた緊迫した夜の場面は、近代東アジア史の劇的な一場面として知られている。

明治 40 年(1907 年)7 月、ハーグ密使事件を契機に第三次日韓協約が締結され、韓国の内政権も日本の統監府の管理下に置かれた。林は明治 39 年(1906 年)に駐韓公使を離任していたが、これら一連の対韓政策の現場を実務的に動かしたのは林であった。

駐英大使 — 第一次世界大戦下のロンドンへ

明治末期から大正期にかけて、林は駐清(中国)公使、駐伊(イタリア)大使を経て、駐英大使に就任した。第一次世界大戦下のロンドンでの大使経験は、日英同盟下の日本外交を現場から支える重要な役割であった。

大正後期には宮内省外事部長を務め、外国賓客への対応や皇室外交の実務を担った。男爵に叙され、貴族院議員にも勅選された。

1939 年 6 月 27 日、東京で死去

昭和 14 年(1939 年)6 月 27 日、林権助は東京で死去した。享年 79。

死の 3 年前の昭和 11 年(1936 年)に刊行した回顧録『わが七十年を語る』(第一書房)は、会津戦争の落城体験から日露外交までを一気に語った貴重な一次史料で、明治外交史研究に欠かせない証言となっている。「8 歳で鶴ヶ城落城を見た子が、79 歳まで生きて明治国家の外交を語る」 — 一人の人生に、近代日本史の落差がそのまま凝縮されている。

青山霊園に眠る

林権助の墓は、青山霊園 1種ロ8号1〜14側。

青山霊園には、林と同時代に対韓・対露外交を担った外交官・政治家が数多く眠る。日露講和の小村寿太郎、第二次日韓協約交渉で同席した伊藤博文(京都・南禅寺別院)はここにはいないが、林と同姓の駐英大使・林董(1種ロ4号10側)も近年まで青山霊園に眠っていた。

会津出身者として、明治国家の対韓外交を実務で支え続けた林権助。鶴ヶ城落城の記憶を胸に抱きながら、別の半島(朝鮮半島)で「降伏する側」の交渉相手と向き合った日々は、近代日本外交史のなかでも独特の重みを持つ。墓所は、その重みを静かに刻んでいる。

墓参り写真

  • 墓所

    — 墓所

墓所の位置

関与した事件

参考資料

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