林 董
はやし ただす
Hayashi Tadasu
日英同盟締結の主役。駐英公使として 1902 年に同盟を成立させた外務官僚。佐倉藩医・佐藤泰然の五男、伯爵。
日英同盟締結の主役 — 駐英公使から外務大臣へ
林董は、明治 35 年(1902 年)1 月 30 日の日英同盟締結を、駐英公使として現地で交渉・調印した外務官僚である。日英同盟は明治日本外交史上の最大の成果の一つで、その後の 日露戦争(1904-05 年)勝利、第一次世界大戦期の対独参戦、ワシントン会議による解消(1923 年)までの 21 年間、日本の対外政策の基軸となった。
林の父は 佐倉藩医・佐藤泰然(順天堂を創設、近代日本医学の先駆者)で、兄は 佐藤尚中(順天堂 2 代院主)。蘭学・西洋医学の名家に生まれた林は、五男であったため林家の養子となり、若年から海外を志した。
幕末、英国留学を経て蘭学・英学を修め、戊辰戦争では幕府方として戦った後、明治政府に出仕。外務官僚として 三国干渉・日清戦争後の対露交渉を担当した後、駐英公使・外相・逓信相を歴任し、伯爵に叙された。
佐倉の蘭方医の家、英国留学
嘉永 3 年(1850 年)2 月 28 日(陽暦 4 月 11 日)、下総国佐倉(現・千葉県佐倉市)の 佐倉藩医・佐藤泰然の五男として生まれる。佐藤泰然は 順天堂(現・順天堂大学医学部の前身)を江戸・後に佐倉で開いた蘭方医の大家であった。
幼くして 林洞海(蘭方医)の養子となり、林家を継ぐ。慶応 2 年(1866 年)、幕府の英国留学生として渡英、ロンドンの ユニヴァーシティ・カレッジ・スクールなどで学んだ。同時期に渡英した日本人留学生(中村正直・河津祐之ら)とともに、明治維新後の外交・教育の担い手となる人材群を形成した。
戊辰戦争では幕府方として 榎本武揚らとともに 箱館戦争に参加。函館五稜郭の戦いで降伏し、新政府に投降した。
明治政府で外務官僚に
維新後、新政府に出仕。岩倉使節団(明治 4-6 年/1871-73 年)に外国伝習生として同行し、欧米の制度を視察。帰国後、工部省・外務省で実務を積んだ。
- 明治 24 年(1891 年): 駐清公使
- 明治 27-28 年(1894-95 年): 日清戦争・三国干渉の処理に外務省側として関与
- 明治 28-32 年(1895-99 年): 駐露公使(三国干渉直後の対露関係改善)
駐英公使として日英同盟締結(1902 年)
明治 33 年(1900 年)、駐英公使就任。当時の英国はビクトリア朝末期、対独警戒と日露関係の悪化を背景に、極東での対露牽制パートナーを模索していた。
明治 34 年(1901 年)秋から林は、英国外相ランズダウン侯との秘密交渉を開始。当時の元老山県有朋・桂太郎首相・小村寿太郎外相が 日英同盟派、伊藤博文・井上馨らが 日露協商派で、日本政府は分裂していた。
林は 「英国は日露戦が起きても日本側に立つ」条項を粘り強く交渉し、明治 35 年(1902 年)1 月 30 日、ロンドンの ランズダウン外相邸で 日英同盟協約に調印。同盟の主要内容:
- 日英いずれかが第三国 1 国と交戦する場合、もう一方は中立を守る
- 第三国 2 国以上と交戦する場合、もう一方も参戦する義務を負う
これにより、日露戦争(1904 年開戦)で フランスの対露参戦を抑止する効果が生まれた(露仏同盟 vs 日英同盟の構図)。日露戦争勝利の最大の外交的基盤を、林は駐英公使として作り上げたのである。
外相として — 第 1 次西園寺内閣
明治 39 年(1906 年)1 月、第 1 次西園寺公望内閣の 外務大臣に就任(同年 1 月 - 1908 年 1 月)。日英同盟の改定(1905 年に第 2 次同盟)、対米鉄道協定、対露関係改善(日露協約・1907 年)などを担当。
明治 44 年(1911 年)、第 2 次桂太郎内閣の 逓信大臣として再入閣。明治 40 年(1907 年)、子爵(後の 伯爵)に叙された。
大正 2 年 7 月 10 日、東京で逝去
大正 2 年(1913 年)7 月 10 日、東京で死去。享年 63。
晩年は外交官出身の元老級として宮中顧問官を務めた。回顧録 『後は昔の記』(没後刊行)は、明治外交史の貴重な一次史料として現在も参照される。
親族の著名人
- 父・佐藤 泰然 — 順天堂創設者、佐倉藩医、近代日本医学の先駆者
- 兄・佐藤 尚中 — 順天堂 2 代院主、医学校教師
- 養父・林 洞海 — 蘭方医
- 林家・佐藤家は近代日本の医学・外交両分野に複数の人材を送った
逸話・エピソード
箱館戦争降伏 — 「明日からは新政府に仕える」
戊辰戦争の最終局面、明治 2 年 5 月の五稜郭開城。榎本武揚らとともに降伏した林董は、新政府軍に投降した直後、同志に対し「昨日まで幕府の臣、明日からは新政府の臣として国に仕える」と淡々と語ったと伝わる。英国留学帰りの 19 歳の青年は、賊軍出身の負い目を引きずらず、新政府で外交官として再出発する道を選んだ。後の日英同盟交渉で粘り抜いた精神は、この若き日の切り替えの早さに通じている。
ランズダウン外相邸での粘り — 通算 30 回の交渉
明治 34 年秋から 35 年 1 月までの日英同盟交渉で、林は英国外相ランズダウン侯と通算約 30 回にわたる秘密会談を重ねたと伝わる。英国側は当初「日露戦が起きても英国は中立」と主張したが、林は「それでは同盟の意味がない。第三国 1 国に対しては中立、2 国以上には参戦」という二段階構造を粘り強く提案し続けた。ランズダウンが「あなたは粘り強さで欧州外交官の上を行く」と評したという挿話が残る。明治 35 年 1 月 30 日、ランズダウン邸での調印は、4 か月の粘りが実った瞬間だった。
蘭方医の家系 — 父・佐藤泰然の遺訓
父・佐藤泰然は順天堂創設者として近代日本医学の礎を築いた人物で、子供たちに「学問は世のために役立てよ」と繰り返し説いた。林董は五男で養子に出されたが、父の遺訓は終生忘れなかったと伝わる。医学ではなく外交の道を選んだものの、「日英同盟という形で国の命を救う」ことが自分の医療だと友人に語ったとされる。順天堂の血脈が、明治外交の最大成果に静かに流れ込んだ。
青山霊園に眠る
林董の墓は、青山霊園 2種イ10号。霊園東部の 2種イ区画にあり、近隣には外交官・実業家の墓所が点在する。日英同盟交渉のパートナーであった小村寿太郎(1種ロ12号1・6側)とは少し離れた位置に眠っている。
日英同盟を成立させた明治外交の主役が、霊園の喧騒からやや退いた東部の一画で静かに眠る配置は、生涯ロンドンの現場で粘り抜いた林の風格に通じるところがある。





