高木 兼寛
たかき かねひろ
Takaki Kanehiro
海軍軍医総監。脚気の食物原因説を実証し、海軍から脚気をほぼ根絶。東京慈恵会医科大学の前身・成医会講習所を創設した近代日本医学の先駆者。
脚気を食物で克服した男 — 海軍軍医の闘い
高木兼寛は、明治期の日本海軍を脚気から救った医師であり、東京慈恵会医科大学の前身・成医会講習所を創設した近代日本医学教育の先駆者である。嘉永2年(1849年)10月30日、日向国宮崎(現・宮崎県宮崎市)で、薩摩藩郷士・高木喜助の長男として生まれる。戊辰戦争で薩摩藩軍医として従軍した後、明治5年(1872年)海軍に出仕、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学(1875-1880年)、英国流の臨床医学を本格的に修めた。
帰国後、海軍軍医として遭遇した最大の課題が「脚気」だった。当時の日本海軍では年間 6,000 人以上の脚気患者が出る深刻な事態で、原因は不明とされていた。高木は明治15年(1882年)の遠洋航海で発生した脚気の集団罹患を分析し、食事内容(白米中心の和食)に原因があるとする「食物原因説」を提唱。明治17年(1884年)の練習艦「筑波」の遠洋航海で、麦飯と肉・牛乳を導入した実験を行い、脚気患者をほぼゼロに抑える劇的な成果を出した。
この成果は陸軍軍医・森林太郎(鴎外)が支持した「脚気細菌説」と激しく対立し、日露戦争では陸軍で脚気患者・死者が大量に出る一方、海軍はほぼ脚気を出さない結果となった。明治38年(1905年)男爵に叙され、明治14年(1881年)に創設した成医会講習所は東京慈恵会医科大学として現存する。大正9年(1920年)4月、東京麻布で脳溢血により死去、享年70。
薩摩藩医の家から戊辰戦争へ
嘉永2年(1849年)10月30日(陽暦)、日向国宮崎で薩摩藩郷士・高木喜助の長男として生まれる。父は刀鍛冶もする郷士で、生活は決して豊かではなかった。少年期から漢学・医学を学び、慶応2年(1866年)、薩摩の蘭学医・石神良策に師事して西洋医学に触れた。
慶応4年(1868年)=明治元年、戊辰戦争で薩摩藩軍医として従軍。鳥羽伏見の戦い・上野戦争を経験し、戦場で多くの負傷兵を治療した。「戦場医学」の現場経験が、後の海軍軍医としての方向を決定づけることになる。
明治海軍へ — ロンドン留学
明治5年(1872年)、東京医学校(後の東大医学部)で蘭方医学を修め、海軍に出仕。明治8年(1875年)、海軍省派遣でロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学する。
ロンドンでは英国流の臨床医学を本格的に学び、解剖学・生理学・内科学・公衆衛生学を修了。明治13年(1880年)に M.B.(医学士)を取得して帰国した。当時の日本人医師の留学先はドイツ系が主流だったが、高木は数少ない英国系医学の系譜を持ち帰った医師となった。これが後の脚気論争で陸軍(ドイツ系・細菌原因説)と海軍(英国系・食物原因説)が対立する伏線となる。
脚気論争 — 明治17年「筑波」の遠洋航海
明治13年(1880年)頃の日本海軍では、白米中心の食事による脚気が深刻な問題だった。年間 6,000 人以上の罹患、死亡率も高い。当時の医学では「脚気は風土病」「細菌性」など諸説あり、原因不明だった。
明治15年(1882年)、練習艦「龍驤」の遠洋航海(ニュージーランド→南米→ハワイ)で乗組員376人中169人が脚気に罹患、25人が死亡する大事件が発生。高木はこの航海の食事記録を詳細に分析し、白米食を中心とした和食が原因とする「食物原因説」を提唱した。
明治17年(1884年)、海軍は高木の提案で「筑波」を同じコースで航海させた。今回は麦飯と肉・牛乳・コンデンスミルクを導入。乗組員 333 人中、脚気罹患はわずか 14 人(死亡 0)に激減した。これが日本医学史に残る「筑波艦の遠洋航海実験」である。
「実験」と呼ぶが、現代の臨床試験設計(対照群・盲検)を満たすものではない。しかし結果の劇的な差は決定的で、海軍は以後、白米から麦飯への切り替え、肉類・乳製品の導入を全艦に展開。海軍の脚気は数年で激減した。
陸軍との対立 — 森鴎外と「細菌原因説」
陸軍軍医部は、ドイツ留学組の森林太郎(鴎外、当時陸軍軍医監)を中心に「脚気は細菌が原因」とする説を支持。食物原因説を「米食を否定する非国民論」と批判し続けた。陸軍は白米食を堅持。
結果は日露戦争(明治37-38年)で残酷に現れた。陸軍では脚気患者25万人、死者2万7,800人。海軍では脚気患者87人、死者3人。「食事で予防できる脚気病で2万7千人を死なせた陸軍」と「同じ戦争で3人しか死なせなかった海軍」 — この差は近代日本医学史の最大の論争点となった。
ビタミン B1 の単離(鈴木梅太郎、明治43年)、その医学的役割の確認は高木の死後だが、結果として高木の食物原因説が正しかったことが科学的に証明された。
東京慈恵会医科大学の創設
明治14年(1881年)、高木は私財を投じて「成医会講習所」を創設。海軍を退いた医師が市井で医療と医学教育に従事する拠点を作った。同17年(1884年)には附属病院として「有志共立東京病院」を開設、貧民救済の医療も行った。
成医会講習所は明治20年(1887年)に東京慈恵医院医学校、明治40年(1907年)に東京慈恵会医院専門学校、昭和27年(1952年)に東京慈恵会医科大学となり、現存する。「慈恵医大」は今日、日本の私立医科大学の名門の一つで、その起源は高木兼寛の私財投入にある。
大正9年4月、麻布で逝去
明治38年(1905年)、男爵に叙される。明治期の医学界で爵位を得た数少ない人物の一人だった。
大正9年(1920年)4月13日、東京府東京市麻布区の自邸で脳溢血により死去。享年70。葬儀は東京慈恵会医院で営まれ、墓所は青山霊園 1種イ10号21・22側1番甲に定められた。
逸話・エピソード
南極の「Cape Takaki」
英国王立海軍のロバート・スコット隊が南極探検(1901-1904 年)を行った際、海軍が脚気で苦しまずに済んだ理由として、英国海軍は高木兼寛の業績を高く評価していた。スコット隊の地理発見の中で、ロス棚氷沿岸の岬の一つに「Cape Takaki(高木岬)」と命名された。日本人医師の名が南極の地形に永遠に刻まれた事例として、現在も南極地名集に残る。
森鴎外との「脚気論争」
陸軍軍医監・森林太郎(鴎外)はドイツ留学組で「脚気は細菌が原因」と主張、高木の食物原因説を「米食を否定する非国民論」と批判し続けた。両者は学会・新聞紙上で何度も論争したが、決して直接の対面論戦には及ばなかった。日露戦争で陸軍が脚気患者 25 万人・死者 2 万 7,800 人を出した一方、海軍が患者 87 人・死者 3 人で済んだ事実は、論争の決着を残酷な形でつけた。鴎外は後年もこの説を表立っては撤回しなかった。
私財を投じた成医会講習所
明治 14 年(1881 年)、高木は私財を投じて「成医会講習所」を創設した。当時の高木は海軍軍医として安定した俸給を得ていたが、その大半を医学教育と貧民救済の有志共立東京病院に注いだ。「医師は儲ける職業ではなく、人を救う職業である」という信念は、現在の東京慈恵会医科大学の建学精神「病気を診ずして病人を診よ」として継承されている。
青山霊園に眠る
高木兼寛の墓は、青山霊園 1種イ10号21・22側1番甲にある。海軍軍医として日本人の生命を最も多く救った医師の一人が、明治国家を作った政治家・軍人たちの近くに静かに眠っている。
宮崎・南極のロス棚氷沿岸に「Cape Takaki」(高木岬)が、英国王立海軍によって命名されている。「Vitamin discoverer(ビタミンの発見者)」として、世界の医学史にも名を刻んだ日本人医師である。





