奥 保鞏
おく やすかた
Oku Yasukata
日露戦争で第二軍を率いた陸軍元帥。皇族と薩長以外で初めて元帥府に列した寡黙な名将で、生涯自らの戦功を語らなかった。
薩長以外で初めて元帥になった寡黙な将
奥保鞏は、明治末から大正期にかけて陸軍を率いた元帥陸軍大将である。豊前小倉藩という、戊辰戦争で長州と戦った側の小藩出身でありながら、日露戦争での第二軍司令官としての功績によって、皇族と薩長以外で初めて元帥府に列せられた。
軍人としての特徴は、徹底した寡黙さである。生涯自分の戦功を語らず、むしろ「功績を消そうとする」癖があったと伝わる。難聴のため幕僚との意思疎通は筆談中心、政治には一切興味を示さず、桂太郎から打診された台湾総督就任も断った。「天性の軍人」というほかない人物だった。
それでも明治 44 年(1911 年)10 月、元帥府列序の人事が発表されたとき、陸軍内で異論を唱える者は一人もいなかった。日露戦争で第二軍を率い、南山・遼陽・沙河・黒溝台・奉天と最前線を歩み続けた指揮統帥は、薩長派閥に阻まれることなく、奥という人物の重みだけで通った。「奥だけは外せまい」 — それが陸軍全体の一致した見方だった。
小倉藩士の家に生まれ、熊本城に籠城する
弘化 3 年(1847 年)11 月、豊前国小倉城下に生まれる。幼名は為次郎。父・奥利右衛門保矩は小倉藩(小笠原家)家臣で、15 歳のとき本家の養子となり奥家を継いだ。
明治 4 年(1871 年)、廃藩置県と同時に陸軍に入営。西海鎮台小隊長に補せられたところから、奥の長い軍歴が始まる。明治 10 年(1877 年)、西南戦争。少佐として歩兵第 14 大隊を率い、熊本城籠城戦に参加した。4 月 8 日未明、突撃中に敵弾が口から頬にかけて貫通する重傷を負ったが、左手で傷口を押さえながら指揮を続けたという。
口の傷は生涯残った。後年、寡黙な指揮官の姿の背後には、若き日の銃創の痛みが常にあったとも伝わる。
日清戦争 — 第五師団長として朝鮮へ
明治 27 年(1894 年)、日清戦争。少将に進級していた奥は、第五師団長として朝鮮半島に出征した。広島から動員された第五師団は、平壌攻略・鴨緑江渡河・遼東半島制圧と、日清戦争陸戦の中軸を担った師団である。
戦後の明治 28 年(1895 年)8 月、軍功により男爵に叙せられる。小倉藩という非藩閥出身の軍人としては異例の栄達だった。明治 36 年(1903 年)、陸軍大将進級。日露開戦の前年のことである。
日露戦争 — 「南山の奥」、奉天会戦の中央左翼
明治 37 年(1904 年)2 月、日露戦争勃発。奥は新編の第二軍司令官に補せられた。
第二軍最初の戦闘が、5 月 26 日の南山の戦いである。遼東半島の付け根、旅順要塞と本土を結ぶ陸路の要衝・南山に陣取るロシア軍に対し、奥の第二軍は正面攻撃を敢行した。一日の戦闘で死傷者 4,387 名 — 当時の日本陸軍にとって衝撃的な損害だった。あまりの戦死者数に、東京の大本営は「電報の数字に余分な零が一つ付いているのではないか」と問い合わせたと伝わる。
しかし奥は南山を奪取し、旅順要塞をロシア本土から孤立させた。これが乃木希典率いる第三軍の旅順攻略を可能にする戦略的前提となった。以後「南山の奥」の渾名が陸軍内に広まる。
6 月の得利寺の戦いでは、ロシア軍 4 万を側面攻撃で撃退。8 月の遼陽会戦では首山堡の屍山血河の戦闘を踏破し、10 月の沙河会戦では夜襲を組織してロシア軍を退却に追い込んだ。明治 38 年(1905 年)1 月の黒溝台会戦では、秋山好古率いる秋山支隊 8,000 とロシア軍 10 万の激戦を指揮下に置き、3 月の奉天会戦では日本軍中央左翼を担当して 3 月 10 日の奉天占領を実現した。
開戦から終戦まで、第二軍は満州の戦場を歩き通した。最前線で兵を指揮しながら、奥は終始多くを語らなかった。
元帥府列序、児玉源太郎の後を継いで参謀総長へ
明治 39 年(1906 年)7 月、参謀総長として日露戦争の事実上の作戦指導者だった児玉源太郎が急逝する。奥は児玉の後任として参謀総長に就任した。
明治 44 年(1911 年)10 月 24 日、元帥府列序。皇族・薩摩・長州以外で初の元帥という、陸軍人事史に残る抜擢である。陸軍内では奥の人柄と日露戦争の戦歴に異論を挟む者はいなかったが、出身藩閥を超えた人事として、薩長以外の藩士出身将校に「奥のような人事もあり得る」という前例を残した。
昭和 5 年(1930 年)7 月 19 日、東京・牛込若松町の自邸で脳出血により没。享年 83(数え)。元号は大正から昭和に移っていたが、奥の名は明治と大正の陸軍とともに語られる名将のままだった。
逸話・エピソード
終戦凱旋時の「済まぬ、許してくれ」
明治 38 年(1905 年)9 月、日露戦争終戦。第二軍司令官として奉天会戦を勝ち抜いた奥は、東京で凱旋の歓呼を受けた。沿道は提灯と歓声で埋まり、新聞は連日「南山の奥」の名を讃えた。
その凱旋の最中、奥が周囲に小さく「済まぬ、許してくれ」と呟いたと伝わる。何度か繰り返されたこの言葉は、第二軍の戦死者と、戦死した部下を持つ家族たちに向けられたものだと解された。一日 4,387 名の損害を出した南山の戦い、首山堡の屍山血河、沙河の夜襲 — 勝利の凱旋は、奥にとって部下を死なせた記憶と分かちがたく結びついていた。
公の場で戦功を語らず、私的な場でも自分を誇らず、終戦の歓呼の中で「済まぬ」と呟く — それが奥保鞏という指揮官だった。
桂太郎が打診した台湾総督を断る
明治末、桂太郎首相は台湾総督の後任に奥を指名しようとした。当時の台湾総督は陸海軍大将級の重職で、文官に道が開かれる前は陸軍の有力ポストの一つだった。
奥は固辞した。理由は単純で、「政治向きのことには一切興味がない」というものだった。武官として戦場と部隊運用に専念し、それ以外の役職には足を踏み入れない — その姿勢を生涯崩さなかった。男爵から子爵、子爵から伯爵へと爵位は重なったが、政界に進出することも、退役後に演壇に立つこともなかった。
寡黙であること、政治に近づかないこと、戦功を語らないこと — 奥が自らに課したこの三つの戒は、皇族・薩長以外で初めて元帥になった非藩閥軍人として、却って彼の存在を陸軍内で際立たせた。
難聴の元帥 — 筆談で指揮を執る
奥は晩年に向かうにつれ難聴が進行した。参謀総長時代、幕僚との作戦協議は筆談で行われることが多かったという。普通であればこれは指揮官として致命的な障害となるはずだったが、奥の場合「指揮采配に支障をきたすことはなかった」と部下たちは口を揃えた。
寡黙な性格と難聴が、結果として作戦会議を簡潔で要点を絞ったものに変えた。長広舌を振るう将官が多かった当時の陸軍にあって、奥の作戦室はいつも静かで、決断は速かった。
森林太郎(森鷗外)は第二軍軍医部長として奥の幕下に勤務した時期がある。鷗外は晩年の随筆で、奥のことを「無口にして毅然たる将軍」と簡潔に書き残している。文学者の目に映った奥もまた、「ものを言わない元帥」だった。
青山霊園に眠る
奥保鞏の墓は青山霊園にある。墓石は陸軍元帥にしては質素な造りで、「奥保鞏之墓」とのみ刻まれている。生前の本人の姿を映したように、戦功も爵位も墓には記されていない。
同じ青山霊園には、奥の指揮下に入った騎兵旅団長・秋山好古、第二軍と並んで満州を歩んだ第四軍司令官・野津道貫、旅順を攻略した第三軍司令官・乃木希典 — 日露戦争で奥と共に戦った指揮官たちがいる。明治陸軍の中核を担った将官の多くが、今もこの霊園に集まっている。




