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長与 俊達

ながよ しゅんたつ

Nagayo Shuntatsu

大村藩の侍医。シーボルトに学び『解体新書』に触発されて蘭方医学を導入、孫の長与専斎に種痘を施した蘭学医の先駆者。

生没年
出身地
肥前国大村藩(現・長崎県大村市)
死没地
肥前国大村藩
時代
江戸
役職
大村藩侍医
区画
1種イ13号2側
タグ
大村藩 / 蘭方医 / シーボルト / 種痘 / 解体新書

大村の蘭方医 — 長与専斎の祖父

長与俊達は、肥前大村藩の世襲侍医・長与家の当主として、漢方医から蘭方医に転じ、シーボルトの長崎鳴滝塾で学んだ蘭学医の先駆者である。文化7年(1810年)に父・俊民の跡を継いで大村藩医となり、社司医(藩医の最高位)に至る。『解体新書』に触発されて長崎で蘭方医学を学び、特に種痘の実践に情熱を注いだ。

文政11年(1828年)のシーボルト事件では、自宅捜索で多数の蘭学書・医学書を所持していたことが判明、医書の没収と謹慎処分を受けた(藩主の世子の健康改善に貢献した功で後に処分は解除)。嘉永2年(1849年)、長崎のオランダ商館医モーニッケから牛痘苗を入手し、自宅で幼孫の長与専斎ら数名に種痘を施した。これは日本における牛痘種痘の最初期の成功例の一つである。安政元年(1854年)、64歳で大村藩で没した。

大村藩医の家に生まれて

寛政2年(1790年)、肥前国大村藩の侍医・長与俊民の次男として生まれる。長与家は代々大村藩主家に仕える世襲医家で、藩主の脈を直接取る家格にあった。

幼少から漢学・医学を父に学び、文化7年(1810年)、父の跡を継いで大村藩医となる。最初は伝統的な漢方医学を修め、社司医(藩医の最高位)にまで昇進した。しかし杉田玄白らの『解体新書』に触れ、西洋医学の解剖学的精密さに衝撃を受けた俊達は、漢方の限界を感じて長崎に出向き、蘭学を本格的に学び始める。

シーボルトに学ぶ — そしてシーボルト事件

文政6年(1823年)、ドイツ人医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎の出島オランダ商館医として来日。その鳴滝塾で蘭方医学・植物学・外科学を講じ始めると、俊達も長崎に出て学ぶ。

文政11年(1828年)、シーボルト事件発覚。シーボルトが帰国の準備中、所持品から日本地図が出てきたことから、日本人の協力者多数が処罰される国家的事件となった。俊達の自宅も捜索を受け、多数の蘭学書・医学書を所蔵していたことが判明。医書は没収され、本人は謹慎処分を受けた。

その後、藩主の世子(後の大村純煕)の病気平癒に貢献したことで処分は解除され、再び大村藩医として復帰する。

牛痘種痘の先駆 — 孫・専斎への接種

嘉永2年(1849年)、長崎のオランダ商館医オットー・モーニッケが牛痘苗の輸入に成功すると、俊達はいち早くこれを大村に持ち帰る。同年、自宅で幼孫の長与専斎(当時11歳)らに種痘を施した。これは日本における牛痘種痘の最初期の成功例の一つで、佐賀の楢林宗建の有名な接種例とほぼ同時期に当たる。

天然痘に苦しむ農村を救うため、俊達は大村藩内の村々を巡って種痘を行い、近代日本における種痘普及の最前線に立った。

孫を養子に — 長与専斎を医家へ導く

文政11年(1828年)、長男・長与中庵(俊達の嫡子)が誕生。中庵は若くして亡くなり、その子・専斎(1838年生)を俊達は自分の養子として引き取って育てた。

専斎が4歳のときに父・中庵が急逝し、祖父・俊達が直接育てることになる。漢学・蘭学・医学を厳しく教え込み、孫を医家の後継として育て上げた。専斎は後に長崎の緒方洪庵の適塾、欧州留学を経て明治政府の初代衛生局長となり、「衛生」という言葉を日本に定着させた日本の近代医療制度の父である。

俊達がいなければ、長与専斎はいない。日本の近代衛生行政の根は、この大村の祖父にまで遡る。

安政元年9月、大村で没す

安政元年(1854年)9月4日、大村藩で死去。享年64。長崎港にペリー艦隊の余波が及び、開国前夜の混乱の中で世を去った。墓所は当初大村に置かれ、後に青山霊園 1種イ13号2側に分骨・改葬された。

逸話・エピソード

11 歳の孫に針を立てる — 牛痘接種の決断

嘉永 2 年(1849 年)、長崎のモーニッケから牛痘苗を入手した俊達は、誰に最初に接種するかを迷わなかった。当時の大村では「牛の膿を子どもに植えると牛の顔になる」という流言が広まっており、農民は誰も種痘を受けたがらなかった。「藩医の家から範を示すしかない」と判断した俊達は、自宅で 11 歳の孫・専斎に最初の針を立てた。

幼い専斎は祖父の手で接種を受け、無事に免疫を獲得した。続いて藩医仲間の子弟、藩内の希望者へと種痘は広がっていく。「孫を実験台にした祖父」 — そう批判する向きもあったが、専斎自身は後年「祖父の決断がなければ大村で種痘は普及しなかった」と書き残している。日本の近代医療制度の父・長与専斎の医家としての出発点は、この祖父の針一本にあった。

シーボルト事件、没収された書庫

文政 11 年(1828 年)のシーボルト事件で自宅捜索を受けたとき、俊達の書庫には数十冊の蘭学書・医学書が収められていた。「これだけの蘭書を所蔵している藩医は西日本でも少ない」と取り調べの幕吏が驚いたと伝わる。書物はすべて没収され、俊達は謹慎処分となった。

それでも俊達は蘭学を捨てなかった。謹慎中も漢方医として診療を続けながら、藩主世子・大村純煕の難病平癒に貢献して処分解除を得る。書庫を一度失っても、頭の中の知識は奪われなかった — シーボルト塾で学んだ蘭方医学を、その後の四半世紀にわたって大村藩内で実践し続け、最終的に孫の専斎を介して日本の衛生行政へとつなげた。

青山霊園に眠る

長与俊達の墓は、青山霊園 1種イ13号2側にある。同じ「1種イ13号」の区画には、川上操六(13側)・後藤象二郎(24側)が眠り、近隣の1種イ12号には孫・長与専斎の墓も置かれている。

孫・専斎の隣に祖父・俊達が眠る — 日本の近代医療制度の系譜が、大村の蘭方医の家から始まり、青山霊園のこの一画に静かに収まっている。シーボルト事件で謹慎を受けながら、孫に牛痘を接種してその命を救った祖父の人生が、戦前の日本の衛生政策の出発点であったことを、墓所の配置はそのまま語る。

墓所の位置

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参考資料

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