川上 操六 (1848-1899)の肖像
川上 操六の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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川上 操六

かわかみ そうろく

Kawakami Soroku

陸軍大将・参謀総長。日清戦争の作戦計画を統括した「陸軍の頭脳」、桂太郎・児玉源太郎と並ぶ薩摩出身の俊英将官。

生没年
出身地
薩摩国(現・鹿児島県鹿児島市)
死没地
東京
時代
江戸・明治
役職
陸軍大将・参謀総長
爵位
子爵
出身校
陸軍士官学校 / ドイツ陸軍参謀本部
区画
1種イ13号13側
タグ
陸軍大将 / 参謀総長 / 日清戦争 / ドイツ留学 / 子爵

「陸軍の頭脳」 — 日清戦争を策定した参謀総長

川上操六は、明治陸軍の 「陸軍の頭脳」と称された 参謀総長である。桂太郎・児玉源太郎と並んで、明治中期の陸軍を担った 薩摩出身の俊英将官として知られる。

最大の業績は 日清戦争(1894-95 年)の作戦計画統括である。参謀本部次長として開戦前から 対清軍作戦計画を策定し、平壌の戦い・黄海海戦・遼東半島攻略・台湾平定までを 大本営の戦略中枢から指揮した。

明治 30 年(1897 年)、陸軍大将・参謀総長に就任。在任わずか 2 年で病没(明治 32 年/1899 年 5 月)、享年 50。子爵に叙された。

短い生涯で日本陸軍を 西洋列強と対等の組織に押し上げた立役者であり、もし長生きしていれば 日露戦争の参謀総長として、満州軍総司令官・大山巌(義兄弟分)とのコンビで日露戦争を指揮した可能性が高い。

薩摩の下級武士から、戊辰・西南戦争へ

弘化 4 年(1848 年)11 月 11 日(陽暦 12 月 6 日)、薩摩国鹿児島(現・鹿児島市)に生まれる。父・川上助八郎は薩摩藩士。下加治屋町に近い場所柄、西郷隆盛・大久保利通・大山巌ら薩摩出身者と若年から親交があった。

戊辰戦争(1868-69 年)では薩摩藩兵として 鳥羽伏見の戦い・東北戦争を戦った。西南戦争(1877 年)では政府軍として九州に出征、薩摩出身者として 西郷隆盛軍と戦う側に立った。

ドイツ留学 — 西洋陸軍を学ぶ

明治 17-18 年(1884-85 年)、川上は ドイツ留学。ベルリン陸軍大学校で メッケル少佐(後の メッケル、明治日本陸軍のドイツ式改革の指導者)らに学んだ。明治日本の陸軍は フランス式 → ドイツ式への転換期にあり、川上はこの転換の中核を担う立場で帰国した。

帰国後、参謀本部(明治 11 年/1878 年設立、日本陸軍の作戦立案・統帥機関)に入り、急速に頭角を現した。明治 22 年(1889 年)、参謀本部次長(参謀総長の代理)に就任。

日清戦争 — 戦略の総合指揮

明治 27 年(1894 年)、日清戦争勃発。川上は 参謀本部次長として、大本営(明治天皇の戦時統帥機関)の作戦立案を実質的に担った。

主な戦略決定:

戦後、川上は 大功一等として 男爵(後 子爵昇格)を授けられ、勲一等旭日大綬章を受章した。

参謀総長として — そして早世

明治 30 年(1897 年)、陸軍大将・参謀総長に就任。日露戦争を見越して 対露作戦計画の策定を進めた。満州・朝鮮の地理研究、シベリア鉄道の建設状況分析、欧州諸国の対露外交動向の分析 — 後の 日露戦争(1904-05 年)勝利の基礎は、川上参謀総長時代に整えられた。

しかし川上は明治 32 年(1899 年)に 胃癌で病臥、同年 5 月 11 日に東京で死去。享年 50。日露戦争開戦の 5 年前であった。

後任の参謀総長は 大山巌(後に満州軍総司令官として日露戦争を指揮)・山県有朋らが歴任。川上の早世がなければ、日露戦争の参謀総長は川上だった可能性が極めて高い。

親族の著名人

逸話・エピソード

メッケル少佐に最も愛された日本人留学生

ドイツ留学中、川上はベルリン陸軍大学校で参謀本部の指導者メッケル少佐から強い感化を受けた。メッケルは多くの日本人将校を教えたが、川上について「あの男は私の教えを単に学ぶのではなく、日本の風土に合わせて再構成する眼を持っている」と日記に書き残したと伝わる。後に来日教官として日本陸軍を指導したメッケルは、川上との再会を最も楽しみにしていたという。日清戦争の作戦計画に随所に見られるドイツ参謀本部流の発想は、二人の師弟関係から生まれたものであった。

児玉源太郎との「双頭」の参謀

明治中期の陸軍は、川上操六と児玉源太郎という二人の俊英が並び立つ「双頭」の体制で動いていた。川上は薩摩出身・参謀本部系、児玉は長州出身・陸軍省系で、表向きは派閥のバランサーだったが、二人は実は深い友情で結ばれていたと当時の参謀将校が回想している。「川上が考え、児玉が実行する」と評され、日清戦争の戦略立案・兵站運営は事実上この二人の合作だった。川上の早世後、児玉が日露戦争の満州軍参謀長として戦勝を導いた背景には、川上時代に共有された戦略観があった。

中国・朝鮮・シベリアを自ら歩いた参謀総長

川上は机上の戦略家ではなく、自ら大陸を踏査する参謀総長として知られた。明治 25-26 年(1892-93 年)、中国・朝鮮・シベリアを長期視察し、地形・道路・水運・住民気質まで自分の眼で確かめた。「地図と兵書だけで戦争を語る将校は信用しない」と部下に説き、若い参謀には必ず現地視察を命じた。日清戦争の平壌攻略・遼東半島作戦が驚くべき精度で展開できたのは、この現地踏査の蓄積によるものだった。

青山霊園に眠る

川上操六の墓は、青山霊園 1種イ13号13側。同じ「1種イ13号」の区画には、後藤象二郎(24 側、土佐藩・自由民権、本日既登録)などが眠る。

薩摩の陸軍参謀総長と、土佐の自由民権運動家が同区画に眠る配置は、明治日本を作った薩長閥 vs 民権派の対立が、最終的に同じ青山霊園に集約された近代日本史を地形に刻む。

「陸軍の頭脳」 — 川上の存在感は、後の 児玉源太郎(日露戦争の満州軍参謀長)・東条英機・梅津美治郎ら参謀本部系の将官の 規範として、戦前陸軍を貫く 1 本の系譜を作った。

墓所の位置

関与した事件

この偉人を含む散歩コース

参考資料

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