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奉天会戦終結


日露戦争最大の陸上決戦。野津道貫第 4 軍・秋山好古騎兵旅団らが奉天を占領、ロシア軍を北方に駆逐。日本陸軍の人的・物的消耗も限界に達した戦い。

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戦争

日露陸戦の総決算 — 60 万人が激突した史上最大規模の会戦

奉天会戦は、明治 38 年(1905 年)2 月 21 日から 3 月 10 日にかけて、満洲・奉天(現・中国遼寧省瀋陽市)周辺で行われた、日露戦争最大の陸上決戦である。日本軍 25 万・ロシア軍 36 万、合計約 60 万人が激突した、当時としては史上最大規模の会戦であった。

満洲軍総司令官・大山巌、総参謀長・児玉源太郎が指揮する日本軍 5 個軍(第 1・2・3・4 軍、鴨緑江軍)が、クロパトキン総司令官率いるロシア満洲軍を奉天前面で包囲する大規模機動を試みた。最終的にロシア軍は奉天を放棄して北方の鉄嶺・四平街方面へ撤退、日本側は 3 月 10 日に奉天を占領した。

軍事的勝利には違いないが、日本側の戦死約 1 万 6,000 名・負傷約 5 万 9,000 名、ロシア側戦死傷約 8 万 9,000 名・捕虜約 2 万名と、両軍ともに莫大な犠牲を出した。日本陸軍の戦闘力は人的・物的に限界に達し、これ以上の長期戦は不可能な状態に追い込まれた。「勝った日本陸軍が、勝ったその瞬間に戦争継続能力を失った」 — 奉天会戦の本質はそこにあった。

背景 — 黒溝台の冬季反攻を凌いだ後

明治 38 年(1905 年)1 月 25-29 日の黒溝台会戦で、ロシア軍の冬季大反攻を立見尚文の第八師団・秋山好古の支隊が薄氷を踏む防戦で凌いだ。同時期、旅順要塞が陥落(1 月 2 日)し、乃木希典率いる第三軍が北上して満洲軍と合流した。

満洲軍総司令官・大山巌と総参謀長・児玉源太郎は、第三軍合流による戦力強化を機に、奉天前面で対峙するロシア軍に対する積極攻勢を決断した。「戦争を長引かせれば日本財政が破綻する。最後の決戦で勝利し、講和への道を開く」という戦略的判断である。

日本軍は奉天前面に弧状に展開していた。東から鴨緑江軍(司令官・川村景明)・第 1 軍(黒木為楨)・第 4 軍(野津道貫)・第 2 軍(奥保鞏)・第 3 軍(乃木希典)。総兵力約 25 万人。ロシア満洲軍はクロパトキン総司令官のもと第 1・2・3 軍に分かれ、総兵力約 36 万人を擁していた。

2 月 21 日 — 鴨緑江軍の陽動から会戦開始

明治 38 年(1905 年)2 月 21 日、東端の鴨緑江軍が攻撃を開始。これは陽動で、ロシア軍の主力を東に引きつける狙いだった。続いて 2 月 24-27 日にかけて、第 1 軍(黒木)・第 4 軍(野津)・第 2 軍(奥)が中央正面で攻撃を進めた。

これと並行して、最右翼の第 3 軍(乃木)が大きく西回りに迂回し、ロシア軍の左翼(西側)を包囲する大規模機動を開始した。秋山支隊(秋山好古少将率いる騎兵第一旅団)が第 3 軍の先鋒として、ロシア軍の補給線を脅かす任務にあたった。

3 月初旬 — 包囲機動とロシア軍の動揺

3 月初旬、第 3 軍は奉天の西方を大きく迂回し、ロシア軍左翼の背後に回り込み始めた。乃木の第 3 軍は旅順攻略で疲弊しきっていたが、奉天会戦では満洲軍最右翼の包囲機動の主役を担うことになった。

ロシア総司令官クロパトキンは、第 3 軍の包囲機動を察知し、撤退準備に入る。クロパトキンは満洲軍各軍司令官との指揮系統が完全には機能せず、命令の遅延や前線の判断のズレが多発した(黒溝台での教訓が活かされなかった)。3 月 9 日深夜、クロパトキンは奉天放棄と北方撤退を命令した。

3 月 10 日 — 奉天占領

明治 38 年(1905 年)3 月 10 日、日本軍が奉天市内に進入、占領した。ロシア満洲軍は鉄嶺・四平街方面に撤退、組織的崩壊までには至らなかったものの、戦闘可能戦力は大きく削がれていた。

兵力消耗・補給線の伸長・冬季の損耗で、日本軍も追撃を断念せざるを得なかった。「ロシア軍を撃破したが殲滅はできなかった」 — これが奉天会戦の戦術的結果である。

戦果と損害

日本ロシア
投入兵力約 25 万約 36 万
戦死者約 1 万 6,000 名約 8,700 名
戦傷者約 5 万 9,000 名約 5 万 1,000 名
捕虜・行方不明約 2,000 名約 2 万 1,000 名(捕虜含む)
結果奉天占領北方撤退

日本側の戦死傷合計約 7 万 5,000 名は、日露戦争全体の戦死傷者の約 3 割に達する。砲弾の備蓄もこの一戦でほぼ枯渇し、新たな弾薬の補充は短期間には不可能になった。

歴史的影響

  1. 日本陸軍の消耗限界の到達

奉天会戦は日本陸軍の人的・物的限界を露呈させた。戦死傷者数、砲弾消費量、補給路の伸長、戦傷病兵の処遇問題 — すべての面で日本陸軍はこれ以上の大規模攻勢を継続できない状態に追い込まれた。「戦勝国が戦争継続不能になる」という稀有な状況が現出した。

  1. 講和への道筋

奉天会戦後、ロシア軍は組織的崩壊を免れたものの戦力の再建には時間がかかり、日本軍も追撃継続は不可能。両軍とも実質的に戦闘力を消耗した状態となった。残された焦点はロシア・バルチック艦隊との海戦(5 月の日本海海戦)に絞られ、日本政府は本格的に講和準備を進める。米国大統領セオドア・ルーズベルトの仲介申し出(6 月 9 日)を受け入れる地盤がここで整った。

  1. 「機動包囲」戦術の世界的研究対象化

奉天会戦で大山巌・児玉源太郎が試みた左翼包囲機動(第 3 軍の大迂回)は、ハンニバルのカンナエの戦い、シュリーフェンの右翼包囲計画と並ぶ近代の機動戦例として、各国軍事関係者の研究対象となった。ただし、十分な殲滅戦に持ち込めなかったことも合わせて分析された。

  1. ロシア帝国の政治的動揺

1 月の血の日曜日事件、奉天での敗北、5 月の日本海海戦壊滅、6 月の戦艦ポチョムキン号反乱、10 月の全国ゼネスト — 1905 年のロシアは社会全体が動揺し、皇帝ニコライ 2 世は十月勅書で立憲制を約束する事態に追い込まれた。日露戦争の敗北は、12 年後のロシア革命(1917 年)の重要な伏線となる。

関連する偉人とその役割

野津 道貫(第 4 軍司令官 / 陸軍大将、後の元帥)

薩摩出身、戊辰戦争・西南戦争日清戦争を経て、日露戦争では第 4 軍司令官として満洲に出征。奉天会戦では中央正面を担当し、ロシア軍主力を引きつける役割を果たした。沙河会戦・奉天会戦と日露戦争の主要会戦を戦い抜き、戦後の明治 39 年(1906 年)、大山巌・山県有朋・小松宮彰仁親王とともに陸軍元帥に親任、侯爵に叙された。

第 4 軍の中央正面での持久戦は、第 3 軍(乃木)の西方包囲機動が成立する前提を支えた。本霊園 1種イ1号26側に眠る。

秋山 好古(秋山支隊長 / 陸軍少将)

愛媛・松山藩出身、サンシール陸軍士官学校・ソミュール騎兵学校卒の「日本騎兵の父」。奉天会戦では第 3 軍(乃木希典)の最右翼に展開し、騎兵旅団を率いて包囲機動の先鋒を務めた。

黒溝台会戦で実証した「下馬騎兵 + 機関銃 + 塹壕」の戦法を奉天会戦でも貫き、コサック騎兵の正面突撃を機関銃で削った。世界最強の騎兵を抑え込んだ実績が、戦後の世界の軍事関係者から「諸兵連合戦闘」の先駆として研究対象となる。弟は連合艦隊作戦参謀の秋山真之。本霊園 1種イ19号2側に眠る。

立見 尚文(第八師団長 / 陸軍中将)

伊勢国桑名藩士の家に生まれ、戊辰戦争で雷神隊を率いて北越戦線を席巻した戦歴を持つ老将。日露戦争では第八師団長として、1 月の黒溝台会戦で「東洋一の用兵家」と讃えられた防戦を成し遂げた後、3 月の奉天会戦でも中央で奮戦した。

第八師団は第 2 軍(奥保鞏)の麾下に組み込まれ、奉天前面の中央正面で陣地を保持しつつ、ロシア軍を引きつける役割を担った。戦後、陸軍大将に進み、男爵を授爵。明治 40 年(1907 年)、東京で病没。本霊園 1種イ1号5側に眠る。

関連する作品

司馬遼太郎『坂の上の雲』(1968-72 年連載)では、奉天会戦は陸戦のクライマックスとして描かれる。秋山好古の右翼機動、乃木第三軍の苦闘、児玉源太郎の総参謀長としての判断が中心となる。NHK スペシャルドラマ版(2009-2011 年)では、阿部寛が秋山好古、柄本明が乃木希典を演じ、奉天会戦の場面が大規模ロケと CG で再現された。

吉村昭『海の史劇』(海戦中心だが奉天への言及あり)、半藤一利『日露戦争史』(平凡社)、長南政義『児玉源太郎』(作品社)など、奉天会戦を中心に据えた研究書・記録文学が継続的に刊行されている。3 月 10 日は戦前期日本では「陸軍記念日」として記念され、戦後も自衛隊では同日を念頭に置く動きがある。

参考資料

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