白川 義則 (1869-1932)の肖像
白川 義則の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
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白川 義則

しらかわ よしのり

Shirakawa Yoshinori

上海事変の上海派遣軍司令官。1932年4月29日の天長節爆弾事件で108か所の傷を負いながら停戦の指揮を執り、約一か月後に殉職した陸軍大将。

生没年
出身地
伊予国温泉郡松山城下千舟町(現・愛媛県松山市)
死没地
上海(陸軍病院)
時代
明治・昭和
役職
陸軍大将
タグ
上海事変 / 天長節爆弾事件 / 陸軍大臣 / 松山藩 / 関東軍

上海・虹口公園で爆弾を受けた陸軍大将

白川義則は、伊予松山藩士の家に生まれ、陸軍大臣・関東軍司令官を歴任し、最後は昭和 7 年(1932 年)の上海事変で上海派遣軍司令官として停戦をまとめた陸軍大将である。

その指揮した停戦の祝賀式典で爆弾を受け、約一か月の闘病ののち戦地で殉職した — 近代日本陸軍の大将としては極めて稀な「戦地での殉職」だった。

事件の現場は上海・虹口公園。昭和 7 年(1932 年)4 月 29 日、天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀会。朝鮮独立運動家・尹奉吉が水筒型爆弾を演壇に投擲し、白川は全身に 108 か所の傷を負った。瀕死の重傷でありながら担架の上で「動揺なく」式の収拾を指揮し続けたという。5 月 26 日、上海陸軍病院で死去。享年 65(満 63)。

陸軍大臣として張作霖爆殺事件(昭和 3 年)の処理に当たり、関東軍司令官として満州を統治し、最後は上海派遣軍司令官として「条約尊重・列国協調・速やかに事件解決」という昭和天皇の付託を受けて停戦を実現した — 昭和初期に最も国際協調的だった陸軍大将の一人が、テロの犠牲として倒れた事件だった。

松山藩士の三男、陸軍士官学校から少将へ

明治元年(1869 年)12 月、伊予国温泉郡松山城下千舟町(現・松山市)に生まれる。松山藩士・白川親応(上士・馬廻役)の三男。同郷の先輩には秋山好古がおり、後年、白川が陸軍大将になっても秋山は会うたびに「白川、勉強しているか」と声をかけ続けたと伝わる。

明治 23 年(1890 年)7 月、陸軍士官学校歩兵科を 103 名中 3 番で卒業。明治 24 年(1891 年)3 月、少尉任官。以後、明治・大正の陸軍を順調に昇進し、大正 8 年(1919 年)1 月に中将、大正 14 年(1925 年)3 月に陸軍大将に親任された。

陸軍大臣 — 張作霖事件の処理を担う

昭和 2 年(1927 年)4 月、田中義一内閣の陸軍大臣に就任。昭和 3 年(1928 年)6 月 4 日の張作霖爆殺事件(関東軍参謀・河本大作大佐らによる謀略)発生後、白川は陸軍大臣として事件の調査・処理を担当した。

田中義一首相と昭和天皇に対し複数回の上奏を行い、事件の真相と陸軍内処分の進捗を報告した。最終的に河本大作大佐の予備役編入という軽い処分で決着したことが昭和天皇の不信を招き、田中内閣総辞職の引き金となる。陸軍内の謀略を抑えきれなかった陸軍大臣の立場は、白川の以後の経歴に影を落とすことになる。

関東軍司令官、そして上海派遣軍司令官へ

大正 12 年(1923 年)10 月から大正 15 年(1926 年)7 月まで関東軍司令官。当時の関東軍はまだ満州事変(昭和 6 年)前の段階で、白川の時代には大規模な軍事行動はなかった。

昭和 7 年(1932 年)2 月、第一次上海事変が泥沼化する中、白川は上海派遣軍司令官に親補された。昭和天皇から直接「条約尊重・列国協調・速やかに事件解決」という付託を受けて上海へ向かった点が異例である。陸軍の独走を抑え、英米仏との協調の下で短期収拾を目指す、というのが白川の任務だった。

3 月 3 日、白川指揮の上海派遣軍は中国第十九路軍を撃退したが、追撃せず即時に停戦に転じた。これが陸軍内強硬派からは「弱腰」と批判される一方、英米国際社会からは高く評価された。5 月 5 日、上海事変停戦協定の正式調印。白川は天皇の付託を完遂した。

4 月 29 日、虹口公園 ——「動揺なく」108 か所の傷で指揮

停戦調印の 6 日前、昭和 7 年(1932 年)4 月 29 日。上海・虹口公園で天長節祝賀会が開かれた。陸軍代表として登壇する白川の前で、朝鮮独立運動家・尹奉吉が魔法瓶型(水筒型)の爆弾を演壇に投じた。

爆発で白川は全身に 108 か所の傷を負った。同席していた重光葵駐華公使は右足を失い、海軍司令官・野村吉三郎は右目を失明、河端貞次居留民団長は即死。それでも白川は担架の上で「たじろぐことなく」式典の収拾を指揮し、関係者を引き上げさせた。

軍医団の懸命の治療にもかかわらず、傷は深く、感染症が広がった。約一か月後の 5 月 26 日、上海陸軍病院で死去。停戦の正式調印を見届けた 21 日後だった。昭和天皇は遺族に御製を下賜し、「条約尊重」の任を全うした白川の死を悼んだ。

逸話・エピソード

秋山好古の「白川、勉強しているか」

同郷松山出身の先輩・秋山好古は、白川が陸軍大将に登り詰めた後も、会うたびに必ず「白川、勉強しているか」と声をかけた。陸軍大将に対して「勉強しているか」と問うのは、当時の階級社会では珍しい接し方だった。

秋山自身は日露戦争で奉天の騎兵を率いた猛将だが、晩年は故郷松山で旧制中学校(現・北予中学校)の校長となり、子供たちに「勉強せよ」と教え続けた人物である。同郷の後輩に対しても、軍人としての階級ではなく、人としての姿勢を問う ——「勉強しているか」は秋山にとって最大の励ましの言葉だった。白川自身も後年、これを「人生で最も身に沁みた一言」として人に語ったと伝わる。

「動揺なく式典の収拾を指揮した」 ——担架の上の上海派遣軍司令官

虹口公園の爆発直後、白川は担架に乗せられても意識を失わず、関係者の状況把握と式典の収拾を指揮し続けた。「重光公使を先に運べ」「居留民を退避させよ」「軍楽隊は撤収を指揮しろ」 — 全身に 108 か所の傷を負った状態での、指揮官としての最後の務めだった。

事件後の上海陸軍病院でも、白川は意識のある間は停戦交渉の進捗を尋ね続けた。5 月 5 日の停戦調印を病床で知り、安堵して涙を流したという。21 日後に死去。「条約尊重・列国協調・速やかに事件解決」という天皇の付託を、文字通り命と引き換えに完遂した司令官だった。

鷺谷墓地への本葬、青山霊園への分骨

白川の遺体は東京に運ばれ、青山斎場で陸軍葬が営まれた後、遺骨は故郷松山に運ばれて鷺谷墓地に埋葬された。同時に分骨が青山霊園に納められ、東京で白川を偲ぶ場所となった。

陸軍大将の埋葬は青山霊園が定石であった時代に、敢えて故郷松山を本葬地とした選択には、白川自身が生前語っていた「松山に帰りたい」という願いが反映されたとされる。同郷の先輩・秋山好古もまた、最後は松山に帰り、松山で亡くなった。松山藩士の家に生まれた二人の陸軍大将は、最後に故郷の土に還った。

青山霊園に眠る

白川義則の墓は、青山霊園内に分骨墓として置かれている。本葬地である松山市鷺谷墓地と東京・青山霊園 — 二つの墓所が、それぞれ「故郷の白川」「中央軍人としての白川」を偲ぶ場所として並んでいる。

同じ青山霊園には、同郷松山の先輩・秋山好古、陸軍大先輩の奥保鞏元帥、上海事変と同じく日中外交の最前線で活動した松平恒雄ら、白川と人生を交差させた人々が眠る。

墓参り写真

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参考資料

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