松平 恒雄 (1877-1949)の肖像
松平 恒雄の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

松平 恒雄

まつだいら つねお

Matsudaira Tsuneo

駐英・駐米大使、宮内大臣、初代参議院議長。会津藩主松平容保の四男、娘・節子は秩父宮雍仁親王妃となった皇室外戚。

生没年
出身地
東京
死没地
東京
時代
大正・昭和
役職
宮内大臣・参議院議長
出身校
学習院 / 東京帝国大学
区画
1種ロ8号1・14側
タグ
駐英大使 / 駐米大使 / 宮内大臣 / 参議院議長 / 会津松平家

「会津」から「皇室の外戚」へ — 戦前外交と戦後宮内行政の重鎮

松平恒雄は、幕末の会津藩主・松平容保(京都守護職、戊辰戦争で新政府軍と戦った悲劇の藩主)の四男として生まれ、戦前の 駐英大使・駐米大使、戦後の 宮内大臣・初代参議院議長を歴任した政治家・外交官である。

四女・松平節子(後の 秩父宮勢津子妃)が 秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮)と結婚(1928 年)、松平家は明治国家に敗れた 賊軍の家から、皇室の外戚へと劇的に位置を転じた。これは戊辰戦争から 60 年を経た「会津復権」を象徴する婚姻として、戦前日本で大きな話題となった。

外交官としては ロンドン軍縮会議(1930 年)・国際連盟脱退(1933 年)期の駐英大使・駐米大使として、太平洋戦争前夜の最も緊張した時期の対米英外交の中枢を担った。戦後は 東久邇宮内閣・幣原内閣の宮内大臣として、新憲法下の象徴天皇制への移行を実務的に支えた。

賊軍の藩主の四男から、東京帝大法学部へ

明治 10 年(1877 年)4 月 17 日、東京・隅田川端の松平家別邸で、会津松平家当主・松平容保(当時 43 歳)の四男として生まれる。父・容保は 戊辰戦争で敗れた後、明治政府により幽閉・蟄居・恭順の処分を受け、明治 13 年(1880 年)に日光東照宮宮司として家を再興していた。恒雄の幼少期は、会津松平家が「朝敵」の汚名を背負いつつ静かに復権を図っていた時期にあたる。

学習院初等科・中等科を経て、東京帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を明治 35 年(1902 年)卒業。外交官試験に合格し、外務省に入省した。

外務省 — ロンドン・ワシントン・国際連盟

外務省では英米畑を歩み、駐米一等書記官・ロンドン総領事・パリ講和会議事務官(1919 年)などを経て、国際連盟事務局(1920 年代前半)で活動。

駐英・駐米合わせて 10 年超を英米で過ごし、英語に堪能な「英米派外交官」として、軍部が台頭する戦前日本で英米協調路線を支えた数少ない実務家であった。

娘・節子と秩父宮の婚約 — 「会津復権」の象徴

昭和 3 年(1928 年)9 月、長女・松平 節子(さわこ)(当時 19 歳、米国時代に英語名 Setsuko で育つ)と 秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮)の婚約が発表された。

戊辰戦争で官軍の砲弾を浴びた 会津藩主の孫娘が、皇室に嫁ぐという象徴的婚姻。「60 年を経た会津の名誉回復」として国民の話題となった。節子は皇室入りに際し名を 「勢津子(せつこ)」に改めた(明治天皇皇后・昭憲皇太后の幼名・節子(さだこ)と同じ漢字を避けたとも伝わる)。秩父宮ご夫妻の結婚生活は、雍仁親王が戦中に肺結核で病臥するなど苦難も多かったが、勢津子妃は戦後の 日米親善・体育振興に長く貢献した。

戦後 — 宮内大臣・参議院議長

昭和 20 年(1945 年)8 月、敗戦。東久邇宮内閣・幣原内閣の 宮内大臣(昭和 20 年 8 月 - 昭和 21 年 1 月)に就任。マッカーサーと昭和天皇の会見(9 月 27 日)・人間宣言(1946 年元旦)・新憲法下の宮内庁設置など、戦後の 象徴天皇制への移行を実務的に処理した。

昭和 22 年(1947 年)5 月の 新憲法下の参議院初開会で、初代参議院議長に選出。「貴族院議長」から「参議院議長」への制度移行を、自身が体現した形となった。在任中の昭和 24 年(1949 年)11 月 14 日、参議院議長室で執務中に 脳出血で倒れ、そのまま死去。享年 72。戦後日本の議会で最初に在職中に死亡した議長となった。

親族の著名人

会津松平家・徳川家とは縁深い名門家系。

逸話・エピソード

「節子」を「勢津子」に — 婚約発表の夜の改名

長女・節子(さわこ)と秩父宮との婚約が内定した昭和 3 年(1928 年)、宮内省から「明治天皇の皇后・昭憲皇太后の幼名と同じ漢字を避けてほしい」との要請があり、松平家は急遽「勢津子」への改名を決めた。発音は同じ「せつこ」だが漢字を全て差し替える異例の措置で、戸籍も書き換えられた。婚約発表の前日に決まった改名だったため、宮内省御用達の印刷所が徹夜で発表文書を組み替えたとの逸話が残る。会津から皇室への嫁入りに付随した、もう一つの「儀礼」だった。

議長室の机に倒れて — 在職中死亡の初代議長

昭和 24 年(1949 年)11 月 14 日、72 歳の松平は参議院議長室で書類に向かっていた最中に脳出血で倒れた。そのまま意識を回復せず、議長室から運ばれた病院で同日午後に死去。新憲法下の議長として、在職中に死亡した最初の例となった。前日まで通常通り議事を仕切り、議員からの挨拶にも気さくに応じていた直後の急死だった。葬儀は参議院葬として議事堂前で営まれ、秩父宮勢津子妃も実父との別れを公式に告げた。

英語で皇室外交を支えた人 — マッカーサーとの会見準備

宮内大臣として、昭和 20 年(1945 年)9 月 27 日の昭和天皇とマッカーサーの初会見の準備を実務的に取り仕切った。駐英・駐米大使を計 10 年務めた英語力で、通訳を介さずアメリカ側と段取りを直接調整できる人材は、敗戦直後の宮内省で松平だけだった。会見当日、写真撮影に GHQ 側カメラマンが入ることに宮内省内で激しい反対があったが、松平が「これは新時代の象徴。撮らせる方が日本のためになる」と押し切ったと伝わる。あの有名な「マッカーサーと並ぶ昭和天皇」の写真は、松平の判断によって世に出た。

青山霊園に眠る

松平恒雄の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側。同じ「1種ロ8号」の区画には、犬養毅浜口雄幸井上準之助加藤高明牧野伸顕頭山満小磯国昭 など、昭和初期の政党政治家・外交官・軍人が並ぶ。

会津藩主の四男から皇室の外戚・初代参議院議長へという、近代日本で最も劇的な家門の軌跡を歩んだ男が、その時代の政治の中枢人物たちと同じ区画に眠っている。1種ロ8号は、太平洋戦争前夜から戦後直後までの政治の縮図となる青山霊園屈指の歴史的区画である。

墓参り写真

  • 墓所

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墓所の位置

関与した事件

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参考資料

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