鵜澤 總明
うざわ ふさあき
Uzawa Fusaaki
極東国際軍事裁判(東京裁判)で日本側弁護団長を務めた弁護士。明治大学総長(複数期)を歴任し、戦前は幸徳事件・帝人事件など重大政治事件を多数担当した。
東京裁判の日本側弁護団長
鵜澤總明は、極東国際軍事裁判(東京裁判、1946-1948)で日本側弁護団長を務めた弁護士である。連合国側の判事 11 名・検事団に対し、被告 28 名(うち判決時生存 25 名)を擁護する側の責任者として、戦勝国による裁判の場で日本側の主張を組み立て続けた。
戦前から大正・昭和の政治事件・大事件で被告側を引き受け続けた弁護士で、幸徳事件(大逆事件、1910-1911)、朴烈事件、李奉昌事件、相沢事件、帝人事件、戦後の昭和電工事件など、時代を画する刑事弁護を担い続けた。明治大学総長(複数期)・大東文化学院総長として法学教育にも力を尽くした、近代日本法曹界の中心人物の一人である。
千葉の村医者の家から東京帝大法科へ
明治 5 年(1872 年)9 月 4 日(陰暦 8 月 2 日)、千葉県長柄郡上太田村(現・茂原市上太田)の医家に生まれる。少年期に上京し、東京帝国大学法科大学を卒業した。
明治 30 年代に弁護士登録、第一東京弁護士会で実務を始めた。大逆事件の弁護団に加わるなど、戦前から「権力に対して国家が法を曲げて被告を罰しようとする事件」で被告側を引き受ける弁護士として知られた。
衆議院議員に 6 回当選(政友会系)、勅選で貴族院議員にも就任。法曹・政界・教育の三領域で重きをなした。
大正・昭和初期の重大政治事件 — 被告側に立ち続ける
鵜澤の弁護士活動を貫いたのは、「弱者・被告の側に法律家として立つ」という姿勢だった。
- 幸徳事件(大逆事件、1910-11): 奥宮健之・岡本穎一郎・新田融・大石誠之助ら被告の弁護
- 朴烈事件(1923): 関東大震災直後に検挙された朝鮮人独立運動家 朴烈を弁護
- 李奉昌事件(1932): 桜田門事件で天皇暗殺未遂を企てたとされた朝鮮人独立活動家を弁護
- 相沢事件(1935): 永田鉄山陸軍省軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐を弁護
- 帝人事件(1934): 帝国人造絹糸株式会社の株式譲渡をめぐる収賄事件で全被告が無罪となった事件で弁護団に参加
戦前日本の権力闘争・思想弾圧・収賄疑獄のいずれにおいても、鵜澤の名は被告人弁護人として記録されている。
極東国際軍事裁判 — 戦勝国の法廷で
昭和 21 年(1946 年)5 月、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂で極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷した。連合国 11 か国の判事団、A 級戦犯 28 名の被告 — 戦勝国による敗戦国指導者の裁判という、近代国家史上類例のない法廷である。
鵜澤は 74 歳でこの日本側弁護団長を引き受けた。被告 28 名にはそれぞれ主任弁護人と副弁護人が付いたが、団長として戦略全体の調整を担ったのが鵜澤である。
弁護方針は明確だった: 「事後法による訴追(平和に対する罪・人道に対する罪)は罪刑法定主義に反する」「侵略戦争の定義が不明確である」「被告個人の責任を超えた集団的責任を問う構造に正当性がない」 — 国際法の原則に基づいて戦勝国法廷の枠組み自体を問う論陣だった。
判決は昭和 23 年(1948 年)11 月。被告 7 名に絞首刑、16 名に終身刑、2 名に有期禁固刑、判決前に病死・自殺した被告は対象外。鵜澤の主張は判決には反映されなかったが、後年の国際法学者の研究では「東京裁判の法的問題点」として鵜澤らの主張が改めて検討されている。
明治大学総長、戦後の法曹界
戦後、鵜澤は明治大学総長を再度引き受け、明治大学理事長・大東文化学院総長・国際基督教大学評議員会議長など、私学の経営・法学教育で晩年を過ごした。
昭和 30 年(1955 年)10 月 21 日、東京・千駄ヶ谷の自邸で逝去。享年 83。東京裁判判決から 7 年後、戦後復興期の日本で、戦前から戦後をまたいで法曹界の中心にあった人生に幕を下ろした。
青山霊園に眠る
鵜澤總明の墓は、青山霊園 1種イ23号2番。同区画近隣には、東京裁判の被告として裁かれた 東郷茂徳(元外相、禁固 20 年で巣鴨病死)・木村兵太郎(陸軍大将、A 級戦犯死刑、立山墓地)・小磯國昭(元首相、終身刑で巣鴨病死) たちも青山霊園に眠っている。
弁護した側と弁護された側が、同じ霊園で眠る — 東京裁判という戦後日本最大の法廷ドラマの「両側面」が、青山霊園に静かに保存されている。




