東郷 茂徳
とうごう しげのり
Togo Shigenori
太平洋戦争の開戦時(東条内閣)と終戦時(鈴木貫太郎内閣)の二度外相を務め、ポツダム宣言受諾の中心となった鹿児島出身の外交官。朝鮮陶工の子孫、A 級戦犯。
開戦と終戦、二度の外相 — ポツダム受諾の中心人物
東郷茂徳は、太平洋戦争の開戦時(1941 年 10 月 - 1942 年 9 月、東条英機内閣)と 終戦時(1945 年 4 月 - 8 月、鈴木貫太郎内閣)の二度にわたって 外務大臣を務めた、戦時日本外交を象徴する外交官である。
開戦時には対米交渉(野村吉三郎大使・ハル国務長官との交渉)の最終局面を担い、終戦時には ポツダム宣言受諾の中心人物として鈴木首相・米内海相と並んで「御前会議」で和平を主張した。
戦後は A 級戦犯として 20 年禁固刑を受け、巣鴨拘置所で服役中の昭和 25 年(1950 年)に病没。獄死した A 級戦犯の一人となった。
東郷の出自は 朝鮮陶工の子孫である。鹿児島県日置郡苗代川は、文禄・慶長の役(1592-98 年)で薩摩藩が連れ帰った朝鮮陶工の集落で、東郷家(本姓・朴)は代々その地で焼物業を営んだ。明治の苗字改正で「東郷」を名乗ったが、東郷茂徳は 日朝両民族のルーツを持つ外交官として、近代日本外交史で特異な位置を占める。
苗代川の陶工の家から、東京帝大文学部へ
明治 15 年(1882 年)12 月 10 日、鹿児島県日置郡苗代川村(現・日置市東市来町)に生まれる。父・朴寿勝は陶工で、後に「東郷」姓を選んで武士株を買い、苗代川村長を務めた。茂徳の本来の姓は 朴であった。
旧制鹿児島中学校・第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)を経て、東京帝国大学文科大学独文科(現・東大文学部ドイツ文学科)に進学、明治 41 年(1908 年)卒業。文学青年として ドイツ文学・哲学を学んだ。
その後 外務省に入省(明治 45 年/1912 年、外交官試験合格)。ドイツ語の能力を買われ、ベルリン・ハンブルク・スイス・ベルン・スウェーデンなど 欧州勤務を歴任した。
大島浩・松岡洋右と対峙したドイツ大使
昭和 12 年(1937 年)、駐ドイツ大使就任。日独伊三国同盟交渉の局面で、親独派の大島浩(陸軍武官)・松岡洋右(外相、1940 年就任)と対立。東郷は 慎重派として、ドイツへの過度な傾斜を警戒した。
昭和 13 年(1938 年)、駐ソ大使に転任。日ソ関係の安定化を図ったが、ノモンハン事件(1939 年)を経て関係は緊張。昭和 15 年(1940 年)に帰国した。
第 1 次外相 — 開戦時の対米交渉
昭和 16 年(1941 年)10 月 18 日、東条英機内閣の外務大臣に就任。前任は松岡洋右系の 豊田貞次郎で、東条が松岡路線(対米強硬)からの転換を期待した起用であった。
東郷は 野村吉三郎駐米大使と協力して 対米交渉(ハル国務長官との会談)を進めたが、11 月 26 日の ハル・ノート(中国・仏印からの全面撤退要求)で交渉は事実上決裂。
12 月 8 日、真珠湾攻撃で日米開戦。東郷は 「最後通告」(米国側への国交断絶通告)を真珠湾攻撃前に伝達するよう指示したが、駐米日本大使館の作業遅延で通告は 攻撃開始後になってしまった。これが後の東京裁判で「だまし討ち」と非難される根拠となる。
昭和 17 年(1942 年)9 月、大東亜省設置を巡って東条と対立、外相を辞任した。
第 2 次外相 — ポツダム宣言受諾
昭和 20 年(1945 年)4 月 7 日、鈴木貫太郎内閣の外務大臣に再任。本土決戦の覚悟が広がる中、東郷は 「対ソ和平仲介工作」を主導(7 月、近衛文麿特使派遣計画)。しかし 8 月 9 日、ソ連参戦でこの工作は破綻する。
同日(8 月 9 日)の 御前会議で、東郷は鈴木首相・米内海相とともに ポツダム宣言受諾を主張、阿南陸相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長らの「4 条件付き受諾」と対立。最終的に天皇の「聖断」で、8 月 14 日ポツダム宣言受諾が決まった。
8 月 15 日、終戦の玉音放送。東郷は同年 8 月 17 日、鈴木内閣総辞職とともに外相を退いた。
A 級戦犯、巣鴨で病没
戦後の昭和 20 年(1945 年)12 月、A 級戦犯容疑で逮捕。極東国際軍事裁判で 20 年禁固刑(昭和 23 年/1948 年判決)。「対米交渉での真摯な努力」を評価され、絞首刑は免れた。
巣鴨拘置所で服役中の昭和 25 年(1950 年)7 月 23 日、胆嚢炎で東京拘置所病棟に死去。享年 67。
獄中で執筆した手記 『時代の一面』(没後刊行)は、対米交渉・終戦工作の当事者証言として、太平洋戦争史の第一級史料となっている。
親族の著名人
- 妻・エディタ・デ・ラランデ(Editha de Lalande) — ドイツ系。建築家ゲオルク・デ・ラランデの娘
- 娘婿・東郷 文彦 — 外務省事務次官、外務官僚として東郷姓を継ぐ
- 孫・東郷 茂彦(東郷文彦の子) — 外務官僚
- 孫・東郷 和彦 — 外務官僚、駐オランダ大使、京都産業大学教授
- 東郷家は戦後も外交官家系として続く
逸話・エピソード
ドイツ語と日本語のあわい
東郷の妻エディタはドイツ人で、家庭内の会話はドイツ語が主だった。子供たちもバイリンガル環境で育った。外務大臣公邸でもエディタは大使夫人らとドイツ語で交流し、当時の外務省内で「東郷家はベルリンの一角のようだ」と評された。文学青年だった東郷は晩年まで ゲーテ・シラーを原書で読み続け、巣鴨拘置所でも独訳聖書を傍らに置いていたという。
「朴」の自覚
東郷は朝鮮陶工の子孫であることを生涯隠さなかった。外務省入省時に「朴」姓のままでは仕事に支障があると上司から助言されたが、東郷家の戸籍上の姓は維新後すでに「東郷」になっていたため改名はしていない。戦後の手記『時代の一面』にも、自分のルーツについて率直に書いている。明治外交官の中でこれほど自分の出自を意識的に語った人物は稀である。
巣鴨での執筆
巣鴨拘置所での服役期間、東郷は獄中で『時代の一面』の草稿を書き続けた。同房の戦犯たちが回想録を残す例は多いが、東郷の手稿は対米交渉・終戦工作の当事者証言として群を抜いて精密で、戦後の歴史学者からポーランドの裁判記録に匹敵する一次史料と評された。死の数日前まで原稿の推敲を続けていたと、看守の証言が残っている。
青山霊園に眠る
東郷茂徳の墓は、青山霊園 1種イ3号4側。同じ「1種イ」エリアには、松岡洋右(1種イ3号1側、戦時下に三国同盟・ソ連中立条約を結んだ前任外相)が隣接して眠る。
開戦時と終戦時の二度外相を務め、A 級戦犯として獄死した男の墓所が、彼が対米交渉で苦闘した時代の前任外相・松岡洋右と隣り合っている — 戦前日本外交の二極が、青山霊園の同じ一角に眠る配置となった。
墓所の位置
関与した事件
- 1904/2/10 日露戦争開戦 日本が露国に宣戦布告、日露戦争が始まる(2 月 8 日仁川沖・旅順港攻撃後)。海軍大臣・山本権兵衛が事前に連合艦隊体制を整備していた。
- 1941/12/8 真珠湾攻撃・日米開戦 日本海軍機動部隊が米ハワイ・真珠湾を奇襲、太平洋戦争が始まる。外相・東郷茂徳が宣戦布告、陸軍次官・木村兵太郎、海軍の山口多聞も開戦時に主要ポストにあった。
- 1945/8/15 終戦詔書(玉音放送) 昭和天皇のラジオ放送で日本のポツダム宣言受諾が国民に伝えられ、太平洋戦争が終結。終戦時外相・東郷茂徳、鈴木貫太郎内閣情報局総裁・緒方竹虎が終戦工作の中核を担った。
- 1946/5/3 東京裁判開廷(極東国際軍事裁判) 連合国が日本の戦争指導者 28 名を「平和に対する罪」で裁いた極東国際軍事裁判。1946 年 5 月に市ヶ谷で開廷し、2 年半の公判を経て 1948 年 11 月に判決が言い渡された。
- 1948/12/23 A 級戦犯死刑執行 東京裁判で死刑判決を受けた東條英機・木村兵太郎ら 7 名が巣鴨拘置所で絞首刑に処された。皇太子(現上皇)15 歳の誕生日に執行された日。






