A 級戦犯死刑執行
東京裁判で死刑判決を受けた東條英機・木村兵太郎ら 7 名が巣鴨拘置所で絞首刑に処された。皇太子(現上皇)15 歳の誕生日に執行された日。
巣鴨拘置所、12 月 23 日午前 0 時
A 級戦犯死刑執行は、昭和 23 年(1948 年)12 月 23 日午前 0 時 1 分から 0 時 35 分の間に、東京・池袋の巣鴨拘置所(現・サンシャインシティ)で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた 7 名に対して順次行われた絞首刑である。
執行されたのは、東條英機(元首相・元陸相、開戦時の最高指導者)、板垣征四郎(元陸相、満州事変主導)、土肥原賢二(元陸軍大将、満州工作)、武藤章(元陸軍中将、軍務局長)、松井石根(元陸軍大将、南京事件時の中支那方面軍司令官)、広田弘毅(元首相・外相、文官唯一の死刑判決)、そして木村兵太郎(元陸軍大将、開戦時の陸軍次官・後のビルマ方面軍司令官、本霊園 1種イ 4 号 1 側に眠る)の 7 名。
執行日は皇太子明仁親王(後の上皇)の 15 歳誕生日と重なった。GHQ がこの日付を選んだ背景には、戦犯処断と新世代日本の節目を象徴的に重ねる意図があったとする説もある。執行後の遺体は米軍の管理下で火葬され、遺骨は遺族に返還されず、太平洋上に散骨されたと伝わる(後に和泉将監らの工作で一部の遺骨が殉国七士廟・愛知県三ヶ根山に密かに祀られた)。
背景 — 極東国際軍事裁判の 2 年半
事件の背景は、昭和 21 年(1946 年)5 月から始まった極東国際軍事裁判である。連合国は戦犯を A 級(平和に対する罪 — 侵略戦争の共同謀議)・B 級(通常の戦争犯罪)・C 級(人道に対する罪)に分類し、A 級戦犯はマッカーサー連合国軍最高司令官指令により東京・市ヶ谷の旧陸軍省講堂(現・防衛省 A 棟跡)で裁かれた。
裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブ卿、判事は 11 か国(米英仏ソ中蘭加豪 NZ 比印)から各 1 名。被告は当初 28 名(松岡洋右・大川周明・永野修身ら一部は公判中に病死・精神病で訴追免除)。罪状は「侵略戦争の共同謀議」(訴因 1)を中心とする 55 訴因。
公判は約 2 年半に及び、被告側弁護人(清瀬一郎・佐藤賢了・ブレイクニー米弁護人ら)は「事後法による処断」「勝者の裁き」と批判し、ラダビノード・パール印判事は全員無罪を主張する反対意見書を提出した。それでも判決は昭和 23 年 11 月 4 日から 12 日にかけて言い渡され、東條ら 7 名が死刑、東郷茂徳・木戸幸一・荒木貞夫ら 16 名が終身刑、東郷茂徳が禁固 20 年、重光葵が禁固 7 年となった。
12 月 22 日に最高裁での上告棄却が確定、翌 23 日未明に執行となった。
昭和 23 年 12 月 23 日 — 執行の夜
執行は午前 0 時 1 分から 35 分の間に、巣鴨拘置所内の絞首台で米軍憲兵により順次行われた。立会人は連合国 4 か国(米英ソ中)代表と仏教・キリスト教の教誨師。死刑囚はそれぞれ別室から呼び出され、教誨師の経・祈祷を受けてから絞首台に登った。
東條英機は午前 0 時 1 分、土肥原賢二と同時に執行。武藤章・松井石根が午前 0 時 13 分、続いて広田弘毅・板垣征四郎・木村兵太郎が午前 0 時 30 分 - 35 分の間に絞首された。それぞれ「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」を最後の言葉とした被告が多かったと、立会教誨師・花山信勝の手記が伝えている。
執行後の遺体は米軍の極秘管理下で東京・横浜の久保山火葬場で火葬され、遺骨は米軍機で太平洋上に運ばれて散骨された(公式記録)。だが昭和 24 年に弁護士・三文字正平らが火葬場残骨を密かに回収し、後に愛知県幡豆郡幡豆町(現・西尾市)の三ヶ根山に「殉国七士廟」を造営して合祀している。昭和 53 年(1978 年)には靖国神社にも合祀され、これは現在まで続く「A 級戦犯合祀問題」の発端となった。
歴史的影響
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戦争責任の制度的決着 — A 級戦犯死刑執行は、連合国側から見れば戦争責任の制度的決着であり、日本国内ではサンフランシスコ平和条約(1952 年)への前提整理だった。判決は「侵略戦争の共同謀議」を法的に確定させ、戦後日本の戦争認識・歴史教育の基本的枠組みとなった。
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「勝者の裁き」論の継続 — パール判事の反対意見書、ジャン・ベルナール仏判事の手続違反指摘、ウェッブ裁判長自身の「天皇訴追すべき」発言など、東京裁判の手続的問題は早くから指摘されてきた。「事後法」「平和に対する罪の創設性」「弁護権制限」などの論点は、戦後保守論壇で繰り返し問題化されている。
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靖国合祀問題への接続 — 昭和 53 年(1978 年)に靖国神社が東條ら 7 名と東郷茂徳・松岡洋右ら獄死した A 級戦犯 7 名を合祀したことで、首相・閣僚の靖国参拝が国際問題化する流れが生まれた。昭和天皇は合祀以降、靖国参拝を停止したことが後年明らかになっている(1988 年富田メモ)。
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戦後日本のスタートライン — 12 月 23 日は、皇太子(後の上皇)の誕生日であり、平成期に「天皇誕生日」として祝日となった日でもある。同じ日に A 級戦犯処断と新世代の出発が重なった象徴性は、戦後日本の出発点を考える上で繰り返し参照されてきた。
関連する偉人とその役割
木村 兵太郎(陸軍大将 / 元ビルマ方面軍司令官 / 死刑執行された A 級戦犯 7 名の一人)
東京府生まれ、本籍埼玉県。陸軍士官学校 20 期・陸軍大学校 28 期を経た砲兵畑のエリート将校。昭和 16 年(1941 年)4 月から日米開戦時にかけて陸軍次官として東條英機陸相を補佐し、開戦詔書の発布過程に関わった。昭和 18 年(1943 年)に陸軍大将に進級。
昭和 19 年 8 月、ビルマ方面軍司令官として現地着任。インパール作戦失敗後の退却戦を指揮し、ラングーン放棄を経て昭和 20 年(1945 年)8 月の終戦を迎えた。戦後、東京裁判で平和に対する罪・通常の戦争犯罪・人道に対する罪(泰緬鉄道建設における捕虜虐待の方面軍司令官としての責任)で起訴され、昭和 23 年 11 月 12 日に死刑判決。同年 12 月 23 日午前 0 時 30 分すぎ、巣鴨拘置所で絞首刑が執行された。享年 60。
真珠湾の朝に陸軍中央にいた次官が、7 年後に絞首台に立つ — 木村の生涯は、開戦時の陸軍中央実務派の運命をそのまま体現している。本霊園 1種イ 4 号 1 側(立山墓地)に眠り、その墓所は近代日本がどのように戦争に至り、どのように戦後を始めたかを最も重い形で示している。同時に処刑された東條英機ら 6 名は別の場所に眠るが、東京裁判で禁固刑となり巣鴨で病死した松岡洋右・東郷茂徳・小磯国昭は本霊園に眠る — 戦犯となった政治家・軍人たちの墓が、青山霊園の同じ一角に集まっている。
関連する作品
- 映画『東京裁判』(1983 年、小林正樹監督) — 4 時間 37 分の記録映画、東京裁判 2 年半の公判記録を編集した代表的作品。第 34 回ベルリン国際映画祭で批評家連盟賞を受賞
- 花山信勝『平和の発見 — 巣鴨の生と死の記録』(朝日新聞社、1949 年) — A 級戦犯教誨師として死刑執行に立ち会った浄土真宗僧侶の手記。東條ら最後の言葉を記録した第一級史料
- 半藤一利・保阪正康・井上亮『「BC 級裁判」を読む』(日本経済新聞出版社、2010 年) — A 級と並行して進められた BC 級裁判の検証
- 映画『プライド・運命の瞬間』(1998 年、伊藤俊也監督) — 津川雅彦が東條英機を演じる、東京裁判を扱った商業映画
東京・池袋のサンシャインシティ周辺は、かつての巣鴨拘置所の跡地である。東池袋中央公園には「永久平和を願って」の石碑があり、A 級戦犯処刑の場所を静かに記憶している。