東京裁判開廷(極東国際軍事裁判)
連合国が日本の戦争指導者 28 名を「平和に対する罪」で裁いた極東国際軍事裁判。1946 年 5 月に市ヶ谷で開廷し、2 年半の公判を経て 1948 年 11 月に判決が言い渡された。
市ヶ谷、1946 年 5 月 3 日 — 開廷
東京裁判(極東国際軍事裁判)は、昭和 21 年(1946 年)5 月 3 日、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂(陸軍省・参謀本部が置かれた建物、現・防衛省)で開廷した。連合国が第二次世界大戦における日本の戦争指導者を、ニュルンベルク裁判と並ぶ国際軍事裁判の枠組みで裁いた、近代日本史上最大の戦争責任追及の場である。
マッカーサー連合国軍最高司令官の特別布告に基づき設置された法廷は、戦争犯罪を A 級(平和に対する罪 — 侵略戦争の計画・遂行の共同謀議)・B 級(通常の戦争犯罪)・C 級(人道に対する罪)に分類した。市ヶ谷で裁かれたのは、このうち A 級戦犯として起訴された日本の元首相・閣僚・軍指導者たちであった。
28 名の被告と 11 か国の判事
起訴された被告は当初 28 名。東條英機・広田弘毅・板垣征四郎ら、開戦から敗戦に至る国策決定に関わった政治家・軍人が名を連ねた。罪状は「侵略戦争の共同謀議」(訴因 1)を軸とする 55 訴因に及んだ。
裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブ卿。判事は連合国 11 か国(米・英・仏・ソ・中・蘭・加・豪・ニュージーランド・フィリピン・インド)から各 1 名が選出され、首席検事は米国のジョセフ・キーナンが務めた。被告側は清瀬一郎・鵜澤總明ら日本人弁護人とブレイクニーら米国人弁護人が担当し、英語と日本語の同時通訳で進行する大規模な国際裁判となった。
2 年半の公判 — 「勝者の裁き」をめぐって
公判は約 2 年半に及んだ。弁護側は「事後法による処断」「戦勝国による一方的な裁き」と裁判の正当性そのものを争い、インドのラダビノード・パール判事は被告全員無罪を主張する長大な反対意見書を提出した。フランスのベルナール判事も手続上の問題を指摘し、ウェッブ裁判長自身も天皇訴追論に言及するなど、判事団の内部にも見解の対立があった。
公判中、首席全権として国際連盟脱退を主導した松岡洋右が病死し、思想家の大川周明は訴訟能力なしとされ、海軍の永野修身も病死して、訴追を免れた。残された被告に対し、法廷は侵略戦争の共同謀議という枠組みで戦争責任を法的に確定させていった。
1948 年 11 月 — 判決
判決は昭和 23 年(1948 年)11 月 4 日から 12 日にかけて言い渡された。東條英機ら 7 名が絞首刑、荒木貞夫・木戸幸一・小磯国昭ら 16 名が終身禁固、東郷茂徳が禁固 20 年、重光葵が禁固 7 年。文官で唯一死刑となった広田弘毅を含む 7 名は、同年 12 月 23 日に巣鴨拘置所で処刑された。
判決はサンフランシスコ平和条約(1952 年)への前提として、戦後日本の戦争認識と歴史教育の基本的枠組みを形づくった。同時に、パール判事の反対意見に象徴される「勝者の裁き」論は、戦後日本の論壇で繰り返し参照され、後の靖国神社 A 級戦犯合祀問題へとつながっていく。
歴史的影響
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戦争責任の制度的決着 — 東京裁判は、連合国の側から見れば日本の戦争責任の制度的決着であった。「侵略戦争の共同謀議」を法的に確定させたことで、戦後日本の出発点における戦争認識の枠組みが定まった。
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「勝者の裁き」論の継続 — 事後法性、平和に対する罪の創設性、弁護権の制限といった手続的問題は早くから指摘され、パール判事の反対意見書とともに、戦後保守論壇で繰り返し問題化された。
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国際法への影響 — ニュルンベルク裁判と並び、東京裁判は「平和に対する罪」「人道に対する罪」を国際法上の概念として定着させ、後の国際刑事裁判の先駆けと位置づけられている。
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靖国合祀問題への接続 — 昭和 53 年(1978 年)に靖国神社が東條ら処刑された 7 名と獄死した A 級戦犯を合祀したことで、首相・閣僚の靖国参拝が国際問題化する流れが生まれた。
関連する偉人とその役割
東郷 茂徳(外務大臣 / 被告 / 禁固 20 年)
開戦時(東條内閣)と終戦時(鈴木貫太郎内閣)に二度外相を務めた外交官。開戦の最終局面で対米交渉に当たり、終戦時にはポツダム宣言受諾の中心となった。東京裁判では開戦時の閣僚としての責任を問われ禁固 20 年の判決を受け、服役中の昭和 25 年(1950 年)、巣鴨拘置所で病没した。本霊園 1種イ3号4側に眠る。
小磯 国昭(第 41 代内閣総理大臣 / 被告 / 終身禁固)
「朝鮮の虎」と呼ばれた陸軍大将。サイパン陥落で東條内閣が倒れた後、本土決戦準備と和平模索を背負って首相に就いた。東京裁判では終身禁固の判決を受け、服役中の昭和 25 年(1950 年)に巣鴨拘置所で病没した。本霊園 1種ロ8号33側に眠る。
松岡 洋右(外務大臣 / 被告 / 公判中に病死)
国際連盟脱退時の首席全権、第二次近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を主導した外交官。戦前日本の進路を決定づけた当事者として A 級戦犯に問われたが、公判中の昭和 21 年(1946 年)6 月に病死し、判決を受けることなく裁きの場を去った。本霊園 1種イ3号1側に眠る。
木村 兵太郎(陸軍大将 / 被告 / 死刑)
開戦時に陸軍次官として東條英機陸相を補佐し、後にビルマ方面軍司令官を務めた。東京裁判では平和に対する罪に加え、泰緬鉄道建設における捕虜虐待の方面軍司令官としての責任を問われ、死刑判決を受けた。昭和 23 年(1948 年)12 月 23 日、巣鴨拘置所で絞首刑が執行された。本霊園 1種イ4号1側(立山墓地)に眠る。
鵜澤 總明(弁護士 / 日本側弁護団長)
明治大学総長を歴任した弁護士で、東京裁判では日本側弁護団長を務めた。連合国の判事 11 名・検事団に対し、被告を擁護する側の責任者として、戦勝国による裁判の場で弁護側の主張を組み立て続けた。戦前は幸徳事件・帝人事件など重大政治事件を多数担当した法曹界の重鎮。本霊園 1種イ23号2番に眠る。
本霊園には、東京裁判で裁かれた被告 4 名 — 二度外相を務めた東郷茂徳、首相の小磯国昭、三国同盟を主導した松岡洋右、ビルマ方面軍司令官の木村兵太郎 — と、彼らを弁護した弁護団長・鵜澤總明が眠っている。被告となった政治家・軍人と、その弁護を担った法曹が同じ霊園の一角に並ぶことは、日本がどのように戦争に至り、その責任をどう裁かれたかという問いを、墓所の地理そのものが静かに示している。
関連する作品
- 映画『東京裁判』(1983 年、小林正樹監督) — 4 時間 37 分の記録映画。米軍撮影の公判記録フィルムを編集した代表作で、第 34 回ベルリン国際映画祭批評家連盟賞を受賞
- 映画『プライド・運命の瞬間』(1998 年、伊藤俊也監督) — 津川雅彦が東條英機を演じる商業映画
- 児島襄『東京裁判』(中公新書、1971 年) — 公判記録に基づく東京裁判の通史