山本 達雄
やまもと たつお
Yamamoto Tatsuo
日本銀行第 5 代総裁。金本位制定着期の中央銀行運営者として知られ、政友会・民政党の大蔵・内務・農林大臣を歴任した男爵。
日本銀行第 5 代総裁 — 金本位制定着期の中央銀行家
山本達雄は、日本銀行第 5 代総裁(1898 - 1903 年)を務めた銀行家にして、明治・大正・昭和を貫く重鎮政治家である。日本が金本位制(1897 年採用)を定着させていく最も繊細な時期に中央銀行を運営し、日露戦争前夜の戦時財政を支える基盤を整えた。その後は立憲政友会・立憲民政党の重鎮として歴代内閣で大蔵・内務・農林大臣を歴任、85 歳まで貴族院議員を務めた。
安政 3 年(1856 年)、豊後国臼杵藩(現・大分県臼杵市)の下級武士の子として生まれた。維新後上京し、三菱の岩崎弥太郎が創立した三菱商業学校で商業・簿記を学ぶ。三菱財閥での実務経験を経て、明治 23 年(1890 年)日本銀行に入行。明治 31 年(1898 年)、わずか 42 歳で日本銀行第 5 代総裁に抜擢された。総裁就任時、金本位制採用から 1 年、日本の中央銀行制度はまだ揺籃期にあった。
総裁退任後は政界に転じ、男爵に叙せられ、第 2 次西園寺内閣・原内閣・田中義一内閣・斎藤実内閣で要職を歴任。戦後の昭和 22 年(1947 年)11 月 10 日、91 歳で死去。明治の銀行家として始まり、戦後憲法施行を見届けた稀有な長寿の政治家だった。
日本銀行総裁就任 — 42 歳の決断
明治 31 年(1898 年)10 月、第 4 代総裁・岩崎弥之助の後任として、山本達雄は日本銀行第 5 代総裁に就任した。42 歳。歴代総裁の中でも若く、岩崎家・財閥関係者からの登用に異例感はあったが、これを推したのは大蔵大臣・松方正義であった。松方は前年に金本位制を採用したばかりで、この新制度を実務的に運営できる中央銀行家として山本を見込んだ。
山本は総裁在任 5 年間で、金本位制の運営、正貨準備の維持、金融恐慌時の中央銀行機能の発揮を担った。明治 33 年(1900 年)の北清事変、明治 34 - 35 年の小金融恐慌など、戦争と恐慌の連続する時期に、日本銀行は中央銀行としての存在感を確立していった。明治 36 年(1903 年)10 月、5 年の任期満了で総裁を退任。後任は日露戦争を金融面から戦った第 6 代・松尾臣善である。
大蔵大臣から内務大臣へ — 政党政治の時代
総裁退任後、明治 40 年(1907 年)男爵に叙せられ、貴族院議員となる。立憲政友会に入党し、大正 2 年(1913 年)山本権兵衛内閣の農商務大臣として初入閣。大正 3 年(1914 年)に発生したシーメンス事件で内閣総辞職に巻き込まれるも、政治家としての地歩は揺るがなかった。
大正 7 年(1918 年)9 月、原敬内閣成立。山本達雄は大蔵大臣として入閣した。原内閣は本格的政党内閣として日本政治史に画期を成すが、その大蔵大臣を任されたことは山本の日銀総裁としての実績への評価を物語っている。第一次世界大戦後の好況処理、戦後恐慌(1920 年)対応など、山本は中央銀行家としての経験を財政運営にも持ち込んだ。
その後、田中義一内閣の内務大臣(1927 - 1929 年)、斎藤実内閣の農林大臣(1932 - 1934 年)と、政友会・民政党の双方で要職を務めた。中央銀行家から出発した政治家として、財政・金融・産業政策の全領域に発言力を持ち続けた。
90 歳まで貴族院議員 — 戦中・戦後を生き抜く
山本達雄は昭和期に入っても貴族院議員を続け、軍部の台頭・戦争への雪崩、敗戦、占領、新憲法施行と、近代日本の最暗部から戦後民主主義の幕開けまでを高齢の議員として目撃した。明治国家の建設期に三菱商業学校で学び、日露戦争前夜の金融政策を担った人物が、占領下の貴族院最終期まで議席にあったという事実そのものが、近代日本史の一つの幅を示している。
昭和 22 年(1947 年)5 月 3 日、日本国憲法施行。貴族院は廃止され、山本の議員生活も終わる。その半年後、昭和 22 年 11 月 10 日、東京で死去。享年 91。
青山霊園に眠る
山本達雄の墓は青山霊園 1種ロ12号 1〜6 側の広い区画にある。日銀総裁時代の同僚や、松方正義・原敬・浜口雄幸ら政治面で関わった指導者たちと、青山霊園は明治金融史・政治史の偉人たちを一画に集めている。
明治国家の中央銀行制度を支え、政党政治の時代を歴代内閣で支え、戦後憲法施行を見届けて静かに世を去った男の墓 — 日本の近代金融史・政治史の長い射程を、その小さな墓石が静かに示している。




