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山梨 勝之進

やまなし かつのしん

Yamanashi Katsunoshin

ロンドン海軍軍縮会議妥結のために「暗殺される覚悟」で動いた条約派海軍大将。戦中は学習院長として明仁皇太子の教育を担った。

生没年
出身地
宮城県仙台(現・仙台市)
死没地
東京
時代
明治・昭和
役職
海軍大将
区画
1種イ22号8側6番
タグ
ロンドン海軍軍縮会議 / 海軍大将 / 学習院院長 / 仙台藩 / 条約派

「暗殺される覚悟で所信を貫いた」 ——ロンドン軍縮を妥結に導いた海軍次官

山梨勝之進は、昭和 5 年(1930 年)のロンドン海軍軍縮会議妥結を、東京の海軍省側から支え抜いた海軍次官・後の海軍大将である。当時の海軍大臣・財部彪は全権としてロンドンに渡っており、海軍省を実質的に預かったのが次官の山梨だった。

軍令部(加藤寛治・末次信正ら艦隊派)が「補助艦比率の決定は統帥権干犯」として猛攻撃する中、山梨は岡田啓介(後の首相)の支援を得ながら条約妥結のための海軍内調整に奔走した。本人が後年語った言葉は端的に「暗殺される覚悟で所信を貫いた」 — 浜口雄幸首相の狙撃(同年 11 月)が現実となる中、海軍次官が同じリスクの中にいたことを示す回想である。

条約批准後、艦隊派の報復人事で次官を更迭され、昭和 8 年(1933 年)、満 56 歳で予備役編入。海軍を追われた山梨は、6 年後の昭和 14 年(1939 年)10 月、宮内大臣・松平恒雄と海軍大臣・米内光政の推挙により学習院院長に就任し、当時 5 歳の明仁親王(後の上皇)の幼少教育を担うことになる。

「軍縮派として海軍を追われた人物が、皇太子教育を任される」 — 昭和の海軍と皇室を結ぶ稀有な経歴の主だった。

仙台藩士の長男、海軍兵学校次席卒業

明治 10 年(1877 年)7 月 26 日、宮城県宮城郡仙台に生まれる。旧仙台藩士の長男。明治 30 年(1897 年)、海軍兵学校 25 期を次席で卒業。海軍大学校甲種 5 期を経て、海軍中央でのキャリアを歩み始める。

海軍中央での評価は早くから高く、軍政・軍令の中枢職を順調に歴任。昭和 7 年(1932 年)4 月、海軍大将親任。同期・先輩格には加藤友三郎(海兵 7 期、後の首相)・山本権兵衛(海軍兵学寮 1 期、海軍の祖)らがおり、彼らが築いた条約派の海軍人脈の正統な後継者として位置づけられた。

海軍次官 — ロンドン軍縮の現場指揮

昭和 3 年(1928 年)12 月 10 日、海軍次官就任(昭和 5 年 6 月 1 日まで)。在任中の最大の試練が、昭和 5 年(1930 年)1 月-4 月のロンドン海軍軍縮会議だった。

海軍大臣・財部彪が全権としてロンドンに渡っている間、海軍省を預かったのが次官の山梨である。岡田啓介(海軍大将、後の首相)の助力を得ながら、海軍内の条約派と艦隊派の意見調整、内閣との連絡、条約批准のための工作に身を粉にして取り組んだ。

艦隊派軍令部次長・末次信正は山梨について「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」と私的に語ったと伝わる。理論武装と粘り強い説得で艦隊派の攻撃を防ぎ続けたのが山梨だった。

条約批准が議会で成立した後、山梨は次官を更迭され、艦隊派の人事報復が始まる。昭和 8 年(1933 年)3 月 11 日、現役を追われた。満 56 歳。本人は「軍縮は犠牲なしには決まりません。自分がその犠牲になるつもりでした」と若槻禮次郎元首相に語っている。

学習院院長 — 明仁皇太子の教育を担う

予備役編入から 6 年後の昭和 14 年(1939 年)10 月、山梨は学習院第 14 代院長に就任した。推挙したのは宮内大臣・松平恒雄(同じく親英米派)と海軍大臣・米内光政(条約派の後継者)。

学習院は皇族・華族の子弟が学ぶ伝統校で、院長は重い地位だった。山梨は昭和 21 年(1946 年)10 月 15 日まで 7 年間、戦中・戦後の激動期に学習院を率いた。

院長時代に教えた主な皇族は明仁親王(当時 5 歳、後の上皇陛下)。皇太子教育を担う立場は、明治期の乃木希典(学習院院長として後の昭和天皇の幼少教育を担当)と同じ系譜である。「海軍大将が学習院長として皇太子を教育する」という近代日本の伝統に、山梨は条約派の系譜から接続した。

昭和天皇は山梨を深く信任しており、戦中も御進講(天皇への学術的説明)に山梨を度々召した。「山梨勝之進」の名を聞くと昭和天皇は即座に「来てもらいなさい」と答えるほど、皇室での評価は高かった。

戦中・戦後 — 海軍再建と日米関係の橋渡し

昭和 16 年(1941 年)12 月、太平洋戦争開戦。山梨は学習院院長としてこの戦争を見届けた。戦中・戦後の混乱期、米内光政・井上成美・井上敬らかつての条約派同志は次々と政治の中枢から消えていったが、山梨は学習院という非軍事の場でひっそりと活動を続けた。

戦後の連合国軍占領下、皇室の存続が議論される中で、山梨は皇室と GHQ の橋渡し役の一端を担った。学習院院長を退いた後も、皇室関係者・旧海軍関係者から相談を受ける長老格として、昭和 42 年(1967 年)12 月 17 日まで生き続けた。享年 90。

戦後の昭和 30 年代-40 年代、山梨は『山梨勝之進先生遺芳録』(海軍歴史保存会刊)で、条約派海軍の証言を後世に残した。「海軍は軍縮時代を生きるための制度設計を怠った」「ロンドン軍縮の意義を国民に十分説明できなかった」 — 自己批判を含む冷静な証言が、戦後の海軍史研究に大きな価値を残した。

逸話・エピソード

「軍縮は犠牲なしには決まりません」 — 若槻禮次郎との対話

ロンドン海軍軍縮会議の批准が議会で紛糾していた昭和 5 年(1930 年)、若槻禮次郎元首相(全権の一人)と山梨海軍次官は密室で会談した。若槻が「君も海軍内で大変な立場だろう」と慰めると、山梨は静かに答えた。

「軍縮は犠牲なしには決まりません。自分がその犠牲になるつもりでした」

実際、条約批准後の山梨は次官を更迭され、現役を追われた。「自分が犠牲になる覚悟」を言葉ではなく実行で示した数少ない海軍士官として、若槻はこの言葉を生涯記憶していたと回想録に書いている。

伏見宮の「山梨は軍服を着ているのか」 ——艦隊派の総攻撃

ロンドン軍縮会議の調整で艦隊派と激しく対立した山梨に対し、艦隊派の頂点に立つ伏見宮博恭王(海軍大将、後の元帥・軍令部総長)は「山梨はいったい、軍服を着ているのか」と発言したと伝わる。皇族から「海軍士官として失格」と暗に指摘されたに等しい言葉だった。

それでも山梨は条約妥結のための調整を最後まで降りなかった。「軍服を着ている以上、国の運命を考えるのが士官の務め」 — 後年、山梨は伏見宮の言葉について「あれは皇族としての激励だったと、今は受け止めている」と寛容に振り返っている。私怨を残さない冷静な性格が、その後の学習院院長就任にもつながったとされる。

「自分のしたことなど口にすべきではない、他人が言ってくれるのだ」

山梨の口癖は「自分のしたことなど口にすべきではない、他人が言ってくれるのだ」だった。条約派海軍の中で最も奮闘した海軍次官でありながら、戦後の回想録でも自分の手柄を語ることを徹底して避けた。

ロンドン軍縮会議の真の功労者は誰か — という戦後の海軍史論争で、山梨自身は「岡田大将のご尽力でした」と岡田啓介の名を挙げ続けた。岡田もまた回想録で「山梨次官の踏ん張りなくして条約は成立しなかった」と書いている。互いに功を譲り合う条約派海軍士官の伝統が、二人の証言から浮かび上がる。

昭和天皇が深く信任した理由の一つは、こうした「功を語らない」性格にあったとされる。「山梨は自分を売り込まない」 — 皇室での評価を、昭和天皇自身が侍従に漏らしたと伝わる。

青山霊園に眠る

山梨勝之進の墓は、青山霊園 1種イ22号8側6番にある。同じ青山霊園には、条約派の盟友・財部彪、宮内大臣として学習院長就任を推挙した松平恒雄、ロンドン軍縮を断行した浜口雄幸首相、条約派の系譜の祖・加藤友三郎、海軍大先輩の山本権兵衛 — 軍縮時代から戦後皇室にかけて山梨が共に歩んだ人々が眠っている。

「軍縮派として追われた海軍大将が、戦後まで皇室の長老格として静かに座を占めた」 — 昭和の海軍と皇室を結ぶ稀有な人生の終着点が、この霊園にある。

墓参り写真

  • 墓所

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