財部 彪
たからべ たけし
Takarabe Takeshi
ロンドン海軍軍縮会議に全権として臨み「売国奴」と糾弾された海軍大将。山本権兵衛の女婿として海軍中枢を歩んだ。
ロンドン海軍軍縮会議の全権 ——「売国奴」と書かれた檄文を浴びた海軍大将
財部彪は、大正末から昭和初期の海軍を代表する大臣級の海軍大将である。海軍大臣を三度務め(加藤友三郎内閣、第二次山本内閣・加藤高明内閣・第一次若槻内閣、浜口内閣)、昭和 5 年(1930 年)のロンドン海軍軍縮会議に若槻禮次郎元首相とともに全権として臨んだ。
主力艦・補助艦の対米英 7 割を獲得した条約は、海軍内軍令部から「統帥権干犯」として激しく攻撃された。財部が帰国した東京駅・丸の内では「売国奴財部を葬れ」「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部」と書かれた檄文が何百枚も撒かれた。
それでも財部は条約を遵守する道を選んだ。浜口雄幸首相が右翼青年に狙撃され(11 月)、若槻内閣が崩壊する激動の中で、財部もまた予備役入りした。条約派海軍の中心人物として、日本が戦争への坂を転がり始める時期に、最後まで踏みとどまろうとした一人だった。
都城藩士の家、海軍兵学校首席で頭角を現す
慶応 3 年(1867 年)5 月 10 日、日向国諸県郡都城(現・宮崎県都城市西町)に生まれる。父・財部実秋は薩摩藩士で、維新後は神職・戸長を務めた。都城は薩摩の支藩で、財部は薩摩系の出身となる。
明治 22 年(1889 年)、海軍兵学校 15 期を首席で卒業。同期には広瀬武夫がいた。広瀬は財部の親友であり、後の山本いねとの縁談で「貴顕の娘を娶らないと約束したではないか」と反対し、深く介入する人物となる。
財部は海軍兵学校卒業後、駐ドイツ大使館付海軍武官、軍令部参謀、海軍省軍務局長など中央のエリートポストを歩んだ。明治 42 年(1909 年)海軍少将、海軍次官就任(明治 43 年 4 月から大正 3 年 4 月まで)。大正 8 年(1919 年)海軍大将に進級。
山本権兵衛の女婿 — 広瀬武夫の反対を超えた縁談
明治 30 年(1897 年)、財部は山本権兵衛海軍中将(後の首相)の長女・いね(1878-1976)と結婚した。山本いねは当時 19 歳、財部 30 歳。
この縁談に最も強く反対したのが、財部と海軍兵学校 15 期同期の広瀬武夫だった。広瀬は「我々は貴顕の娘を娶らない」と互いに約束していたとして、山本邸に乗り込み「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」と山本権兵衛に直談判した。
山本権兵衛の妻・登喜が「広瀬さん、あたしの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚はできないのでしょうか」と涙で訴えると、広瀬はようやく矛を収めた。同期の親友の縁談に乱入する広瀬の激しさと、海軍中枢の家族関係の複雑さを示す逸話として知られる。
財部は山本権兵衛の女婿となり、以後の海軍人事で「山本系」と見られる立場を得る。兵学校 15 期同期の岡田啓介は後年「財部が宮様なみにどんどん進級してゆく」と語り、山本の威光による異例の昇進を指摘した。実力と縁戚の双方が、財部の海軍中枢への階段を作った。
海軍大臣 — 三度の在任、軍政の中枢へ
財部は海軍大臣を三度務めた。
- 第 9 代:加藤友三郎内閣(大正 12 年 5 月 15 日-大正 13 年 1 月 7 日)
- 第 11 代:第二次山本内閣・加藤高明内閣・第一次若槻内閣(大正 13 年 6 月 11 日-昭和 2 年 4 月 20 日)
- 第 13 代:浜口内閣(昭和 4 年 7 月 2 日-昭和 5 年 10 月 3 日)
ワシントン海軍軍縮条約(大正 11 年)を受けた海軍の縮小、八八艦隊計画の凍結、艦隊予算の調整 — 軍縮時代の海軍を運営する重い任務が、財部三度の在任に重なった。
ロンドン海軍軍縮会議 ——「売国奴」の檄文と統帥権干犯問題
昭和 5 年(1930 年)1 月-4 月、ロンドン海軍軍縮会議。財部は浜口雄幸首相の信任を受け、若槻禮次郎元首相とともに全権として渡英した。
会議は主力艦の対米英比率 6 割(ワシントン条約踏襲)に加え、補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の比率を米国 10 に対し日本 6.975(約 7 割)とする条約案で妥結。日本側は当初目標の 7 割をほぼ獲得した。
しかし海軍軍令部(加藤寛治軍令部長・末次信正次長ら艦隊派)は、補助艦比率の決定を内閣が単独で行ったことを「統帥権干犯」として猛烈に攻撃した。統帥権は天皇大権であり、内閣の関与は憲法違反である — という議論で、政党政治の枠組み自体を揺るがす政治問題に発展した。
財部が東京駅に帰着したとき、丸の内一帯には「売国奴財部を葬れ」「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部」と書かれた檄文が何百枚も撒かれていた。条約批准の議会審議は紛糾し、浜口首相は同年 11 月 14 日に東京駅で右翼青年に狙撃され、翌年死去する。
財部は条約批准を成し遂げた後、海軍大臣を辞任。昭和 6 年(1931 年)12 月予備役編入。条約派海軍の中心人物として、軍縮時代の日本を代表する全権だったが、海軍内強硬派からは「降将」「売国奴」と憎悪される後半生となった。
玉川学園の理解者 — 教育者・小原國芳を支える
退役後の財部は政界からも引き、教育者・小原國芳(玉川学園創立者)の理解者・支援者として後半生を送った。玉川学園顧問を務め、自由教育の理念に共鳴した。
戦時下の昭和 18 年(1943 年)、海軍は財部に対し「予備役の老元帥級を組織する海軍懇談会」への参加を要請したが、財部は静かに辞退した。条約派として軍部独走に反対した一貫した姿勢を、最後まで崩さなかった。
昭和 24 年(1949 年)1 月 13 日、肝臓癌のため東京で死去。享年 81。妻いね(山本権兵衛の長女)は財部の死後 27 年生き、昭和 51 年(1976 年)98 歳で世を去った。
逸話・エピソード
広瀬武夫の「貴顕の娘を娶るな」 — 親友の介入
財部と山本いねの縁談に対し、海兵 15 期同期の広瀬武夫が示した反対は、当時の海軍内でも語り草となった。広瀬の論理は単純で、「我々は実力で出世する。貴顕の娘を娶って権力を借りるべきではない」 — 海軍中枢の貴族化を警戒する直情径行な思想だった。
広瀬は明治 37 年(1904 年)3 月 27 日、旅順港閉塞作戦・福井丸指揮官として戦死し、「軍神広瀬」となって日本中で英雄視される。財部はその後の海軍人生を、戦死した親友の批判を背に進むことになった。
「広瀬が生きていたら、自分のロンドン軍縮会議全権をどう評価しただろう」 — 財部は晩年、ぽつりと友人に漏らしたと伝わる。条約派の道は、親友広瀬が予言した「貴顕の娘を娶った男の道」と無関係ではなかった。
東京駅丸の内の「売国奴」檄文
昭和 5 年(1930 年)6 月、ロンドン海軍軍縮会議から帰国した財部を待っていたのは、東京駅丸の内一帯に撒かれた何百枚もの檄文だった。「売国奴財部を葬れ」「英米に屈服した降将」 — 言葉は最大限の侮辱で、財部の家族にも届く脅迫状が連日舞い込んだ。
それでも財部は職を辞さず、条約批准を最後まで遂行した。海軍内の艦隊派将校が公然と財部の罷免を要求する中、浜口雄幸首相は財部を全面的に擁護した。同年 11 月 14 日、浜口は東京駅で右翼青年に狙撃され、翌年死去。財部の盟友であった首相も、ロンドン軍縮条約の代償を払った。
「もし広瀬が生きていたら」 — 老いた財部の独白
戦後、玉川学園で老境を過ごした財部は、来訪する旧海軍関係者に「もし広瀬が旅順で死なずに生きていたら、ロンドン軍縮会議の全権は広瀬になっていたかもしれない」と語ったという。
実力派の代表だった広瀬は、もし生きていれば後の山本五十六や米内光政と同じ「条約派」の系譜にあった可能性が高い。財部は「自分は山本権兵衛の女婿として歩んできたが、海軍は実力本位であるべきだった」という反省を、晩年ずっと抱え続けた。山本の縁とロンドン軍縮の重い責任が、財部の人生を貫く二つの軸だった。
青山霊園に眠る
財部彪の墓は青山霊園 1イ2-13 にある。義父・山本権兵衛の墓と近く、海軍中枢の家系として隣接して眠っている。同じ青山霊園には、海兵 15 期同期の親友・広瀬武夫、同時代の海軍指導者・加藤友三郎、ロンドン軍縮会議で財部を支えた条約派の山梨勝之進、浜口内閣で財部と並んだ蔵相・井上準之助 — 軍縮時代を共に歩んだ人々が集まっている。






