ロンドン海軍軍縮条約調印
浜口雄幸内閣が補助艦(巡洋艦・駆逐艦)の対米比率 7 割で調印。海軍軍令部の反発が「統帥権干犯問題」となり、同年 11 月の浜口首相狙撃事件の遠因となった。
統帥権干犯問題と政党政治の終わりの始まり
ロンドン海軍軍縮条約は、昭和 5 年(1930 年)4 月 22 日、英国ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で、米・英・日・仏・伊の五か国によって調印された軍縮条約である。ワシントン海軍軍縮条約(1922 年)で対象外だった補助艦(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)の保有量を制限する内容で、日本の対米英比率は補助艦総トン数で 10:10:6.97、特に重巡洋艦は 10:10:6 とされた。
日本首相は浜口雄幸(本霊園に眠る、立憲民政党総裁、第 27 代内閣総理大臣)、全権は若槻禮次郎(元首相)・財部彪海相・松平恒雄駐英大使・永井松三駐ベルギー大使の 4 名。海軍内部の艦隊派(加藤寛治軍令部長・末次信正軍令部次長ら)は対米英 7 割確保を絶対線として主張、米英側との交渉は難航した。
浜口・若槻は「日本財政と国際協調を考えれば対米英 6.97 割で受諾すべき」と判断、加藤友三郎が主導したワシントン軍縮条約(1922 年)の路線を継承する形で条約に踏み切った。だが、海軍軍令部の頭越しに兵力量を決定したことは、後に「統帥権干犯」 — 憲法上の天皇大権である統帥権を内閣が侵犯したとする攻撃 — として、軍部・右翼・政友会(野党)から猛烈な政治攻撃を浴びる。
そして昭和 5 年(1930 年)11 月 14 日、浜口首相は東京駅丸の内南口で右翼青年・佐郷屋留雄に拳銃で狙撃された。倒れた浜口が漏らした「男子の本懐」の一言、翌年の死去、井上準之助暗殺(1932 年)・犬養毅暗殺(同 5 月、五・一五事件)へと続くテロの連鎖の起点となる、戦前日本政党政治の終焉を予告する出来事である。
背景 — ワシントン体制下の補助艦競争
ワシントン海軍軍縮条約(1922 年)で主力艦の保有量は制限されたが、補助艦(基準排水量 10,000 トン以下の巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)は対象外だった。このため米英日三国は、条約締結後に補助艦の建造競争を新たに開始した。特に米海軍は重巡洋艦の大量建造計画(1924 年・1929 年計画)で巨額の予算を投じ、日英もこれに対抗を迫られた。
世界恐慌の影響と建艦競争の財政負担を抑えるため、英国首相マクドナルドが軍縮会議の開催を提唱。昭和 5 年(1930 年)1 月 21 日、ロンドン海軍軍縮会議が開幕した。
日本側全権団は、若槻禮次郎(元首相、首席全権)・財部彪(海軍大臣、山本権兵衛の女婿)・松平恒雄(駐英大使)・永井松三(駐ベルギー大使)の 4 名。海軍からは加藤寛治軍令部長(艦隊派、加藤友三郎とは別人)が反対の立場を取り、随員を通じて圧力をかけ続けた。
ロンドンでの交渉と「対米 7 割」の絶対線
会議の核心は補助艦比率だった。日本海軍が掲げた絶対線は次の三点。
- 補助艦総トン数で対米 7 割
- 重巡洋艦(大型巡洋艦)で対米 7 割
- 潜水艦保有量 78,500 トン(現状維持)
米英側の提案は補助艦総トン数で対米 6.5 割、重巡で対米 6 割、潜水艦の大幅削減。日本側の絶対線とは大きな乖離があった。約 2 か月の交渉の末、米国側全権スティムソン国務長官・松平恒雄駐英大使の妥協案(松平・リード妥協案、3 月 13 日)で、補助艦総トン数 10:10:6.97、重巡 10:10:6.02、軽巡 10:10:7.0、駆逐艦 10:10:7.0、潜水艦は日米英対等(各 52,700 トン)が示された。
東京の海軍軍令部は「対米 6.97 割は絶対線突破ではない」が、「重巡で対米 6 割は絶対線突破である」と判断、回訓案の修正を要求した。閣議は何度も紛糾、海軍部内では浜口首相・財部海相・若槻全権ら条約派と、加藤寛治軍令部長・末次信正軍令部次長・東郷平八郎元帥らの艦隊派の対立が表面化した。
最終的に、浜口は加藤寛治軍令部長の反対を押し切り、4 月 1 日に「松平・リード妥協案受諾」の回訓を発した。閣議決定の上、ロンドンの若槻全権に伝達。閣議の場で、財部海相は加藤軍令部長の反対意見書を抑え込んだ。これが後に「軍令部の意思を無視した内閣の独断」として攻撃されることになる。
4 月 22 日 — セント・ジェームズ宮殿での調印
昭和 5 年(1930 年)4 月 22 日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で、五か国海軍軍縮条約が調印された。日本側からは若槻禮次郎・財部彪・松平恒雄・永井松三の 4 名が署名。
条約の主な内容は次の通り。
| 項目 | 内容 | | 補助艦総トン数 | 米 526,200 トン / 英 541,700 トン / 日 367,050 トン(対米 6.97) | | 重巡洋艦(8 インチ砲) | 米 180,000 トン / 英 146,800 トン / 日 108,400 トン(対米 6.02) | | 軽巡洋艦(6.1 インチ砲) | 米 143,500 トン / 英 192,200 トン / 日 100,450 トン(対米 7.0) | | 駆逐艦 | 米 150,000 トン / 英 150,000 トン / 日 105,500 トン(対米 7.0) | | 潜水艦 | 米 52,700 トン / 英 52,700 トン / 日 52,700 トン(日米英対等) | | 効力期間 | 1936 年末まで |
「統帥権干犯」攻撃
調印報道後、加藤寛治軍令部長は天皇に上奏して「軍令部の意思に反する条約調印は統帥権の干犯である」と訴えた。野党・立憲政友会(犬養毅総裁・鳩山一郎ら)も、議会で浜口内閣を激しく攻撃。鳩山一郎の議会演説で「統帥権干犯」の語が初めて公の議論として登場した。
統帥権干犯論の核心は次の論理である。大日本帝国憲法第 11 条「天皇は陸海軍を統帥す」、第 12 条「天皇は陸海軍の編制及び常備兵額を定む」 — このうち兵力量の決定(第 12 条)は内閣の輔弼事項だが、艦隊派は「兵力量の決定も統帥事項(第 11 条)に含まれる」と主張し、内閣が軍令部の同意なく兵力量を決定したことを違憲だと攻撃した。
枢密院の審議も難航したが、伊東巳代治枢密顧問官らの反対を押し切り、昭和 5 年(1930 年)10 月 1 日、枢密院で条約承認可決、翌日批准書交換、10 月 27 日に発効した。条約は成立したが、政界・軍部・世論には深い亀裂が残された。
11 月 14 日 — 東京駅で
昭和 5 年(1930 年)11 月 14 日午前 9 時前、岡山県下での陸軍特別大演習に向かうため、浜口雄幸首相は東京駅丸の内南口の改札を抜けた。プラットフォームへ向かう途中、右翼団体・愛国社の青年、佐郷屋留雄(当時 23 歳)が拳銃を発射。弾は浜口の腹部を貫通した。
倒れた浜口は、その場で「男子の本懐」と漏らしたとされる。重傷を負いながらも翌昭和 6 年(1931 年)1 月、議会出席を果たして政府提出予算案を可決させた。しかし傷の悪化により 4 月に首相を辞任、同年 8 月 26 日に死去。享年 61。佐郷屋は無期懲役判決、後に減刑で釈放、戦後まで存命した。
東京駅丸の内南口の床には、現在も狙撃地点を示すささやかな印が残されている。
歴史的影響
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ワシントン体制の最後の延命 ロンドン軍縮条約は、ワシントン体制(1922 年成立)を延命させた最後の国際協調の成果だった。だが昭和 11 年(1936 年)末の条約失効後、日本は無条約時代に突入し、無制限の建艦競争(大和型戦艦の建造)へと突き進んだ。
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統帥権干犯問題の長期的影響 ロンドン条約反対派が打ち出した「統帥権干犯」論は、以後あらゆる軍部抗命の理論的根拠となった。満州事変(1931 年 9 月)の関東軍独断行動、二・二六事件(1936 年)など、軍部の独走を正当化する論理として機能し続けた。
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政党政治への暴力の連鎖 浜口狙撃(1930 年 11 月)、井上準之助暗殺(1932 年 2 月 9 日、血盟団事件)、団琢磨暗殺(同 3 月 5 日)、犬養毅暗殺(同 5 月 15 日、五・一五事件) — テロの連鎖は、1932 年 5 月の政党内閣崩壊で政党政治期そのものを終わらせた。ロンドン条約反対運動はその起点である。
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海軍内対立の決定的深化 条約派(米内光政・山本五十六・井上成美ら)と艦隊派(加藤寛治・末次信正・南雲忠一・草鹿龍之介ら)の対立は決定的となった。後の太平洋戦争開戦の意思決定にも深く影響する内部分裂が、ロンドン条約批准をめぐる対立で完全に表面化した。
関連する偉人とその役割
浜口 雄幸(第 27 代内閣総理大臣)
高知県出身、東京帝大法学部卒、大蔵省出身の政党人。立憲民政党初代総裁。「ライオン宰相」と呼ばれた重厚な風貌の硬骨政治家として、井上準之助蔵相と組んだ金解禁(1930 年 1 月、旧平価による金本位制復帰)と、ロンドン海軍軍縮条約調印(同年 4 月)の二つを断行した。
ロンドン軍縮条約では、海軍軍令部の反対を押し切って松平・リード妥協案を回訓、条約調印に踏み切った。「統帥権干犯」攻撃を浴びながらも枢密院承認まで政治的に押し切り、戦前日本の国際協調路線を貫いた。
その代償は同年 11 月 14 日の東京駅狙撃事件で支払われた。「男子の本懐」を漏らした浜口は、半年余の闘病の後、昭和 6 年(1931 年)8 月 26 日に死去。享年 61。本霊園 1 種ロ 8 号 1・14 側に眠る。同区画には共に金解禁を断行し血盟団事件で暗殺された井上準之助、五・一五事件で射殺された犬養毅、加藤高明、牧野伸顕といった大正末から昭和初期の政党政治家が並ぶ。政党内閣制がテロによって崩れていく約 10 年間の歴史を、この一画の墓石群が無言で語っている。