民撰議院設立建白書
板垣退助・後藤象二郎・副島種臣ら 8 名が、議会開設を求める建白書を左院に提出。自由民権運動の起点となり、後の帝国議会開設(1890 年)へとつながった。
日本初の議会開設要求 — 自由民権運動の起点
民撰議院設立建白書は、明治 7 年(1874 年)1 月 17 日、板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平・由利公正・小室信夫・古沢迂郎・岡本健三郎の 8 名が連署して、左院(立法諮問機関)に提出した建白書である。日本史上初めて、政府に対して公式に「民撰議院(国会)の開設」を要求した文書として記憶される。
民撰議院設立建白書は、明治政府を「有司専制」(少数官僚による独裁)と批判し、租税を負担する人民が立法に参画する権利を持つべきだと主張した。提出から 16 年後の明治 23 年(1890 年)、第一回帝国議会開設をもって部分的に実現する自由民権運動の、最初の公式な狼煙(のろし)である。
背景
明治 6 年(1873 年)10 月の明治六年政変で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣ら 5 名の参議が下野した。征韓論を機に表面化したのは、大久保利通・岩倉具視ら「内治派」と、留守政府を担っていた「征韓派」の権力闘争であった。
下野した参議たちは、大久保利通中心の政府を「有司専制」と批判する立場を共有しつつも、その後の進路は分かれた。江藤新平は故郷・佐賀で武力蜂起へ向かい(明治 7 年 2 月の佐賀の乱)、西郷隆盛は鹿児島で私学校を構えて静観の構えを取る。
一方、板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・由利公正らは、武力ではなく言論で政府に対抗する道を選んだ。明治 7 年 1 月 12 日、東京・銀座の山内容堂邸跡で「愛国公党」を結成、続いて 1 月 17 日に民撰議院設立建白書を左院に提出した。
着想の源には、欧米視察を経た副島種臣・後藤象二郎が持ち帰った議会政治の知識、そしてイギリスの議会政治を熟知していた古沢迂郎・小室信夫(両者ともロンドン留学経験者)の理論的貢献があった。古沢が起草し、副島・後藤が修正を加えたとされる。
1 月 17 日 — 左院への提出と新聞掲載
明治 7 年 1 月 17 日、8 名連署の建白書が左院に提出された。建白書の論旨は次の通り。
- 現在の明治政府は天皇でも人民でもなく「有司」(官僚)が専制している
- 天下は天下の天下であり、政府の天下ではない
- 租税を負担する人民は、政事に参与する権利を有する(代表なくして課税なし)
- 民撰議院(国民の代表からなる議会)を開設すべきである
建白書は提出と同時に「日新真事誌」(イギリス人ブラックが経営する新聞)に全文掲載され、政府機関のみならず広く国民の目に触れることとなった。新聞による政治的言説の流通という、明治の政治近代化を象徴する出来事である。
これに対し政府側は、加藤弘之(東京大学初代総理、当時左院議官)が「時期尚早論」で反論。1 月から 3 月にかけて、新聞紙上で建白書派と政府派の論争が展開された。日本史上初めての、議会開設をめぐる公開政治論争であった。
歴史的影響
1. 自由民権運動の組織化
建白書を出した愛国公党は、板垣退助が故郷の高知に戻って結成した立志社(明治 7 年 4 月)、続いて全国組織の愛国社(明治 8 年 2 月)へと発展する。明治 14 年(1881 年)の自由党結成・国会開設の詔、明治 23 年(1890 年)の第一回帝国議会開設まで、自由民権運動は明治政治史の主軸の一つとなった。
2. 「有司専制」批判の定着
建白書が掲げた「有司専制」という政府批判の枠組みは、その後の自由民権派・改進派の標準的論調となり、紀尾井坂の変(明治 11 年)の斬奸状でも参照された。明治政府を内側から相対化する政治言語が、ここで初めて公式化された。
3. 出版・新聞による政治運動
建白書が新聞掲載と同時に世論を喚起した事実は、明治政府に新聞・出版が政治運動の主戦場になることを認識させた。明治 8 年(1875 年)の讒謗律・新聞紙条例による言論統制は、この建白書騒動への政府側のリアクションでもある。
4. 武力反乱との分岐点
征韓論政変で同時に下野した参議たちが、武力(江藤新平 → 佐賀の乱、西郷隆盛 → 西南戦争)と言論(板垣・後藤・副島 → 民撰議院設立建白書)に分岐する分水嶺となった。日本の近代政治史において、武装蜂起ではなく議会主義へ向かう不平士族の主流が形成された起点である。
関連する偉人とその役割
後藤 象二郎(元参議・愛国公党)
民撰議院設立建白書の中心的署名者の一人。明治六年政変で下野した直後、板垣退助とともに愛国公党を結成し、建白書を起草・提出した。岩倉使節団に同行はしなかったものの、坂本龍馬との海援隊時代から欧米の議会政治への関心は深く、大政奉還を主導した経験が「議会の必要性」という確信を支えていた。建白書提出後は故郷・土佐に戻って立志社結成にも関与、自由民権運動の中心人物として明治政党政治の地ならしを行う。
副島 種臣(元参議・元外務卿)
明治六年政変で外務卿の職を辞して下野した直後、民撰議院設立建白書の起草に深く関わった。岩倉使節団期間中に留守政府の外務卿としてマリア・ルス号事件を国際裁判で解決した経験は、「国家が法と理性に基づいて運営される」という確信を副島に与えていた。建白書はその確信を国内政治に適用する試みであった。後年は宮中顧問官として明治政府に復帰するが、初期自由民権運動の理論的貢献は副島の生涯の重要な業績の一つとなる。
関連する作品
- 大江志乃夫『自由民権運動』(中公新書、1971 年) — 民撰議院設立建白書から国会開設までの自由民権運動史の標準的概説
- 司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文藝春秋、1972-76 年) — 明治六年政変からの分岐点として建白書を位置付ける
- NHK 大河ドラマ『獅子の時代』(1980 年、山田太一脚本) — 自由民権運動を会津出身者の視点から描く名作