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明治六年政変(征韓論政変)


朝鮮への使節派遣をめぐる対立で西郷隆盛・板垣退助ら参議が下野。大久保利通による内治優先体制が確立。

1873 Seikanron Debate Saigo Takamori Ukiyo-e by Suzuki Toshimoto
1873 Seikanron Debate Saigo Takamori Ukiyo-e by Suzuki Toshimoto Suzuki Toshimoto (active c. 1877-1890s) / Wikimedia Commons / Public domain
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政変

維新政府を二つに割った政変

明治六年政変は、明治 6 年(1873 年)10 月、朝鮮への使節派遣をめぐる対立で、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣の参議 5 名が一斉に下野した、明治政府最初の本格的な権力闘争である。征韓論政変とも呼ばれる。

岩倉使節団として欧米を視察してきた大久保利通・岩倉具視・木戸孝允の「内治派」と、留守政府を預かっていた西郷隆盛らの「征韓派」が真っ向から対立し、後者が破れて野に下った。これにより明治政府は大久保利通を中心とする内治優先体制へと一本化される一方、下野した参議たちは佐賀の乱(明治 7 年)、自由民権運動(明治 7 年 〜)、西南戦争(明治 10 年)へと、それぞれ別の道を歩む。

背景

明治 4 年(1871 年)11 月、岩倉具視を全権大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団が、不平等条約改正の予備交渉と欧米視察を目的に出発した。約 1 年 10 か月にわたる外遊である。その間の国内政治は、留守政府(留守内閣)が担うことになった。

留守政府の中心は西郷隆盛・板垣退助・大隈重信・江藤新平・副島種臣後藤象二郎ら。彼らは「使節団帰国までは大きな改革を行わない」と申し合わせていたにもかかわらず、徴兵令(明治 6 年 1 月)・学制発布(明治 5 年 8 月)・太陽暦採用(明治 5 年 11 月)・地租改正条例公布(明治 6 年 7 月)など、矢継ぎ早に改革を断行した。

並行して進展していたのが朝鮮との外交問題である。明治新政府は維新後、朝鮮王朝(李氏朝鮮)に対し国交樹立を打診したが、明治政府の国書の表現を巡って朝鮮側が拒絶。明治 6 年に入ると釜山の日本人居留民に対する朝鮮側の侮辱的な掲示があったとして、留守政府内に強硬論が高まる。

西郷隆盛は、自らが朝鮮に使節として赴き、もし無礼を受ければそれを名分として開戦すべしと主張した。板垣退助は兵を派遣して直接威圧することを唱えたが、西郷は「まず自分が単身使節として渡る、殺されればその時開戦せよ」と一歩進んだ案を出し、明治 6 年 8 月の閣議で西郷の朝鮮派遣が一旦内定する。

10 月 14 〜 24 日の閣議死闘

明治 6 年 9 月 13 日、岩倉使節団が帰国。大久保利通・木戸孝允は、欧米視察で痛感した日本の国力差を背景に、「内政改革を優先し、対外戦争は避けるべき」と主張した。10 月 14 日 〜 15 日、太政官で連日の閣議が開かれる。

西郷を支持したのは板垣退助・江藤新平・後藤象二郎副島種臣ら。大久保・岩倉・木戸はこれに対抗するが、閣議は紛糾。三条実美太政大臣は、両派の板挟みの中で過労から倒れ、岩倉が太政大臣代理に就任する。

10 月 23 日、岩倉は西郷派遣の太政官決定を握りつぶし、独自に明治天皇に上奏。翌 24 日、明治天皇は西郷派遣の延期を裁可した。閣議決定が天皇上奏段階で覆された、政変的決着である。

これに激怒した西郷隆盛は同日辞表を提出、参議・近衛都督・陸軍大将のすべてを辞して鹿児島に帰郷する。板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣も連袂して下野した。明治政府を支えた 5 人の参議が一夜にして政府を去る、空前の政変であった。

歴史的影響

1. 大久保利通体制の確立

下野した参議の代わりに、大久保利通自身が初代内務卿(明治 6 年 11 月)に就任する。地方制度・警察・殖産興業を統括する内務省が、明治政府の中央集権体制の心臓部となった。以後の明治 7 〜 10 年は「大久保政権」と呼べる時代である。

2. 不平士族の反乱の連鎖

下野した参議たちのうち、江藤新平は佐賀に帰って明治 7 年(1874 年)の佐賀の乱を起こし斬首された。西郷隆盛は鹿児島で私学校を設立し、明治 10 年(1877 年)の西南戦争で政府軍と戦って自刃した。明治六年政変は、不平士族の組織的な武力反乱の出発点となった。

3. 自由民権運動の起点

一方、板垣退助・後藤象二郎副島種臣・江藤新平は、明治 7 年 1 月、民撰議院設立建白書を左院に提出し、議会開設を求める運動を開始した。これが自由民権運動の起点となり、後年の帝国議会開設(明治 23 年/1890 年)へとつながる。

4. 朝鮮問題の先送り

朝鮮派遣そのものは延期されたが、対朝鮮問題は明治 8 年(1875 年)の江華島事件、明治 9 年の日朝修好条規へと別の形で展開する。「征韓論」は政変として封じ込められたものの、東アジア秩序をめぐる対立の火種は明治末期まで持ち越されることとなる。

関連する偉人とその役割

大久保 利通(参議・前帰国組)

岩倉使節団から帰国し、西郷派遣に真っ向から反対した内治派の中心人物。欧米視察で目の当たりにした列強の国力との差を背景に、「対外戦争は時期尚早、まず内政整備」を主張した。岩倉具視を動かして天皇上奏のルートで決定を覆させた政治手腕は、後年の評価が分かれる剛腕の典型例となった。政変後、初代内務卿として中央集権体制の構築に邁進する。

西郷 糸子(西郷隆盛の妻)

夫・西郷隆盛が下野して鹿児島に帰郷した時、糸子は隆盛とともに薩摩の本宅で生活していた。明治 6 年 10 月以降、西郷は中央政界から完全に離脱し、私学校を主宰しながら静かな日々を過ごす。糸子にとって、政変後の 3 年余りは、夫と最も濃密に過ごした時期となる。明治 10 年 2 月の西南戦争出陣まで、政変による下野は西郷家にとって束の間の家庭生活の回復でもあった。

後藤 象二郎(参議)

征韓論派の一人として西郷を支持し、政変で下野した。下野直後の明治 7 年 1 月、板垣退助・副島種臣・江藤新平らと連名で民撰議院設立建白書を左院に提出、自由民権運動の旗手として再起する。後藤の政治家としての第二幕は、明治六年政変での下野を起点に始まった。

副島 種臣(参議・外務卿)

岩倉使節団期間中、外務卿として留守政府の外交を一手に担い、マリア・ルス号事件(明治 5 年)を国際裁判で解決して国際的評価を得た。明治六年政変では征韓派として下野し、明治 7 年 1 月の民撰議院設立建白書に名を連ねる。書家「蒼海」として大成するのは下野以降の人生のことで、政変は副島の生涯にも大きな転換点となった。

関連する作品

  • 司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文藝春秋、1972-76 年) — 明治六年政変を、大久保利通と西郷隆盛の友情と決裂を軸に、最も精緻に描いた長編小説
  • NHK 大河ドラマ『翔ぶが如く』(1990 年、緒形拳が大久保、西田敏行が西郷を演じる) — 司馬作品の映像化
  • NHK 大河ドラマ『西郷どん』(2018 年、鈴木亮平が西郷を演じる) — 西郷の視点から明治六年政変を描く

参考資料

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