E V E N T

第 1 次護憲運動(第 3 次桂太郎内閣成立)


西園寺内閣総辞職を受け桂太郎が組閣。「閥族打破・憲政擁護」を掲げる尾崎行雄・犬養毅らの護憲運動が起き、翌大正 2 年 2 月の桂内閣崩壊(大正政変)へとつながる。

「閥族打破・憲政擁護」を掲げた犬養毅
「閥族打破・憲政擁護」を掲げた犬養毅 Wikimedia Commons / Public domain
日付
カテゴリ
政変

大正政変の引き金、政党政治の幕開け

第一次護憲運動は、大正元年(1912 年)12 月、第二次西園寺公望内閣の総辞職と第三次桂太郎内閣の成立を受けて、犬養毅(立憲国民党)・尾崎行雄(立憲政友会)を中心に「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに展開された政治運動である。同年 12 月 21 日に発足した第三次桂内閣はこの運動に翻弄され、わずか 53 日で総辞職に追い込まれた(大正政変、1913 年 2 月)。

明治期以来、内閣は元老の合議で決まり、長州・薩摩を中心とする藩閥が政治の中枢を独占してきた。それに対し、議会の多数政党が首相を出すべきだという「憲政常道」の思想を、犬養と尾崎が街頭演説・新聞論壇・議会演壇のすべてで主張した。「憲政の神様」「議会政治の神様」と呼ばれる二人の名は、この運動を通じて広く国民に定着していく。

大正デモクラシーと呼ばれる潮流のうねりが、ここから始まる。普通選挙法(1925 年)・政党内閣制の定着・治安維持法成立・五・一五事件による政党内閣の崩壊まで続く、約 20 年の政治史の幕が開いた瞬間である。

背景 — 2 個師団増設要求と西園寺内閣の総辞職

明治 45 年/大正元年(1912 年)7 月 30 日、明治天皇崩御。同日、皇太子嘉仁親王が践祚し、大正と改元された。明治の終わりと大正の始まりが重なる、まさに時代の境目だった。

そして同年 11 月、陸軍は朝鮮駐箚 2 個師団の増設を要求。第二次西園寺公望内閣(立憲政友会・西園寺首相)は、財政難を理由にこれを拒否した。陸軍大臣・上原勇作は単独で天皇に辞表を提出し、後任陸相を陸軍が推さないことで内閣を倒した。当時の軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣は現役の大・中将でなければならない)が、軍部による内閣崩壊の道具として初めて使われた事例である。

12 月 5 日、西園寺内閣は総辞職。後継として元老会議は長州閥・桂太郎を推薦した。桂はすでに第一次(1901-1906)・第二次(1908-1911)と二度首相を務めており、明治末期最大の権力者だった。だが、桂は前年に内大臣兼侍従長(天皇側近職)に就任していたため、内大臣から首相への横滑りは「宮中・政府の境界を越える違憲行為」として強い反発を呼んだ。

12 月 21 日 — 第三次桂内閣成立

大正元年(1912 年)12 月 21 日、第三次桂太郎内閣が発足。組閣にあたって桂は、立憲国民党の総裁・犬養毅を入閣交渉に呼ぶなど政党の取り込みを試みたが、犬養はこれを拒否。代わりに護憲運動を立ち上げる側に回った。

犬養毅(立憲国民党総裁、当時 57 歳)と尾崎行雄(立憲政友会、当時 54 歳)が中心となって、12 月 19 日に憲政擁護会が結成された。「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、東京・大阪・京都・名古屋など各地で大演説会を開催。

桂は事態の収拾を図るため、自ら新党(立憲同志会、後の憲政会)結党に動き出した。藩閥首相が政党を作ろうとするという皮肉な構図は、明治国家の権力構造がついに政党政治へ転換しつつあることを示していた。

大正 2 年 2 月 — 桂内閣 53 日で崩壊

大正 2 年(1913 年)2 月 5 日、衆議院本会議で犬養毅・尾崎行雄が立て続けに桂太郎を弾劾する演説を行った。尾崎は壇上で桂に向かい、「彼等は常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居る」「玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか」と弾劾。この演説は議場を揺るがし、新聞各紙が全文掲載した。

民衆も街頭に出た。2 月 10 日、桂内閣不信任案上程の日には数万人が国会を包囲、警官隊と衝突して負傷者が出る騒擾事態に発展。新聞社・交番が焼かれ、警視庁前に押し寄せる群衆が東京の街を覆った。

2 月 11 日、桂内閣総辞職。組閣からわずか 53 日。明治以来初めて、議会と民衆運動の合力で内閣が倒された瞬間である。これを大正政変と呼ぶ。桂太郎は同年 10 月に病没、明治の藩閥政治を象徴する政治家の終焉でもあった。

後継は政友会単独の山本権兵衛内閣となり、文官任用令改正で政党人の高級官僚就任を認めるなど、政党政治への道がさらに開かれていく。

歴史的影響

  1. 政党内閣制の起点 護憲運動の成功は、藩閥政治から政党政治への移行を加速させた。原敬の本格的政党内閣(1918 年)、第二次護憲運動(1924 年)、加藤高明・若槻禮次郎・浜口雄幸犬養毅と続く政党内閣の連鎖は、この大正政変を起点とする。

  2. 大正デモクラシーの本格化 吉野作造の民本主義論文(1916 年)、美濃部達吉の天皇機関説、普選運動、労働運動・婦人運動など、大正期の自由主義的・民主主義的潮流の起点として、護憲運動は位置づけられる。

  3. 民衆運動の政治的力 街頭デモ・新聞論壇・大衆動員が初めて内閣を倒すという経験は、戦前日本の政治文化に「民衆運動の有効性」という新しい記憶を植え付けた。普通選挙運動(1920 年代)に直接つながる流れである。

  4. 軍部大臣現役武官制への教訓 西園寺内閣崩壊の原因となった軍部大臣現役武官制は、第一次山本権兵衛内閣で予備役・後備役にも就任資格を拡大する改正が行われた(後の昭和期に再度復活、二・二六事件後の広田弘毅内閣で完全復活)。

関連する偉人とその役割

犬養 毅(立憲国民党総裁)

岡山県備中庭瀬出身、慶應義塾出身の政党人。第一次護憲運動では立憲国民党総裁として、尾崎行雄と並んで運動の二枚看板を務めた。桂太郎からの入閣交渉を拒否し、護憲側に立った決断が運動の方向性を決定づけた。

「閥族打破・憲政擁護」のスローガンは犬養・尾崎の議会演説と街頭演説で繰り返され、新聞論壇でも引用された。この運動で犬養は「憲政の神様」と呼ばれるようになり、以後、第二次護憲運動(1924 年)・護憲三派内閣・首相就任(1931 年)・五・一五事件での暗殺(1932 年 5 月)まで、約 20 年にわたって戦前政党政治の象徴的存在として活動し続けた。本霊園 1 種ロ 8 号 1・14 側に眠る。

関連する作品

  • 升味準之輔『日本政党史論』(東京大学出版会) — 大正政変と護憲運動を政党史の文脈で詳細に分析
  • 三谷太一郎『大正デモクラシー論』(中央公論社、1974 年) — 護憲運動から普通選挙法までの大正期政治史の古典的研究
  • NHK『その時歴史が動いた・尾崎行雄と犬養毅』 — 二人の議会演説を中心に大正政変を再現した歴史ドキュメンタリー

参考資料

← 事件一覧に戻る