上原 勇作 (1856-1933)の肖像
上原 勇作の肖像 Wikimedia Commons / Public Domain
P E R S O N

上原 勇作

うえはら ゆうさく

Uehara Yusaku

陸軍元帥・子爵。2個師団増設問題で陸相を単独辞職し第2次西園寺内閣を倒した「大正政変」の発端人物。日向都城出身、大山巌の娘婿。

生没年
出身地
日向国都城(現・宮崎県都城市)
死没地
東京
時代
明治・大正
役職
陸軍元帥
爵位
子爵
出身校
陸軍士官学校 / フランス陸軍砲工学校
受勲
勲一等旭日桐花大綬章 / 功二級金鵄勲章
区画
1種イ11号19側
タグ
陸軍元帥 / 大正政変 / 2個師団増設問題 / 教育総監 / 参謀総長 / 子爵

「2個師団増設」で内閣を倒した男 — 陸軍元帥

上原勇作は、明治末から大正期にかけて陸軍の政治力を象徴した 陸軍元帥である。1912 年(明治 45 年/大正元年)、「2 個師団増設問題」で第 2 次西園寺公望内閣の 陸軍大臣を単独辞職し、軍部大臣武官制を逆手に取って後任候補を陸軍が出さないことで内閣を総辞職に追い込んだ。これが 「大正政変」(第 1 次護憲運動)の引き金となる。

工兵科出身ながら、参謀総長・教育総監・陸軍大臣・元帥を歴任。大山巌の娘婿という閨閥もあり、薩摩閥・長州閥の枠を超えた陸軍中央の重鎮として、明治末から昭和初期まで影響力を保ち続けた。

「陸軍の政治家」 — 上原を最もよく表す言葉である。軍を背景に文官政府を動かす手法は、その後の昭和陸軍の振る舞いの 原型となった。

日向都城の士族から、フランス留学へ

安政 3 年(1856 年)11 月 9 日(陽暦 12 月 6 日)、日向国都城(現・宮崎県都城市)の薩摩藩士・上原五左衛門の子として生まれる。島津氏支配の都城は薩摩藩の南端で、教育水準が高かった。

戊辰戦争では年少のため大きな従軍はなく、明治新政府発足後の 陸軍士官学校(旧砲兵第 1 期)を卒業(明治 9 年/1876 年)。工兵科を志望し、フランス陸軍砲工学校に留学(明治 14-15 年/1881-82 年)。欧州の最新の軍事工学を体得した。

帰国後は陸軍工兵科のエースとして、参謀本部・陸軍大学校教官・工兵監などを歴任。大山巌(陸軍卿・参謀総長)の娘・捨松の妹・寛子と結婚し、大山巌の娘婿となった。閨閥としては薩摩閥の中枢に位置する。

日露戦争 — 第 4 軍参謀長として

明治 37 年(1904 年)、日露戦争で 第 4 軍参謀長(司令官は野津道貫)として満州に渡る。沙河会戦・奉天会戦で参謀の指揮中枢を担い、戦功を上げた。戦後、男爵に叙される(後の 子爵昇格)。

第 2 次西園寺内閣の陸相として — 2 個師団増設要求

明治 44 年(1911 年)、第 2 次西園寺公望内閣で 陸軍大臣就任。明治 45 年/大正元年(1912 年)、上原は 「朝鮮 2 個師団増設」を内閣に要求した。

背景は 辛亥革命(1911 年 10 月)による中国情勢の流動化と、朝鮮統治のための軍備強化要求。陸軍は 「半島防衛は喫緊の課題」として、2 個師団分の予算(年 1,000 万円規模)の確保を強く求めた。

しかし西園寺首相と原敬内相は、「日露戦後の財政逼迫を踏まえれば不可」として要求を退けた。これに対し上原は、大正元年(1912 年)12 月 2 日、単独で陸軍大臣を辞職。陸軍は 軍部大臣武官制を盾に後任候補を出さなかった。

陸軍大臣不在で組閣不能となった西園寺内閣は、12 月 5 日、総辞職。これが 大正政変の発端となる。

大正政変 — 「閥族打破・憲政擁護」運動

第 2 次西園寺内閣総辞職を受けて成立した 第 3 次桂太郎内閣(長州・陸軍系)に対し、犬養毅・尾崎行雄らが 「閥族打破・憲政擁護」を掲げて反対運動を展開。

「閥族 = 上原をはじめとする陸軍・長州・薩摩の特権集団、それを打倒して立憲政治を守れ」 — 上原の単独辞職は、この第 1 次護憲運動の論理的標的となった。大正 2 年(1913 年)2 月 11 日、桂内閣も民衆デモに包囲される中で総辞職(桂園時代の終焉)。

「陸軍が政治を動かせる」という構造を示した上原の手法は、その後 1930 年代の 満州事変期の陸軍の政治的台頭の原型となった。歴史評価において、上原は 「昭和陸軍の暴走の原点を作った」人物としても語られる。

参謀総長・教育総監・陸軍元帥として

大正期後半、上原は 教育総監(陸軍三長官の一つ)・参謀総長(同)を歴任、陸軍中央の最高位を占め続けた。

昭和初期になっても元帥として、また 薩摩閥(野津道貫亡き後の重鎮)として、皇道派・統制派の対立に隠然たる影響を持ち続けた。

昭和 8 年 11 月 8 日、東京で逝去

昭和 8 年(1933 年)11 月 8 日、東京・赤坂の自邸で死去。享年 76。

死の翌年、二・二六事件(1936 年)で皇道派青年将校が決起。上原がパトロン的に庇護していた皇道派の終焉を、彼は見ずに逝った。

親族の著名人

逸話・エピソード

フランス仕込みの工兵将校

フランス陸軍砲工学校に留学した上原は、帰国後も生涯フランス式の規律を保ち、軍服の着こなしや所作はパリ仕込みの几帳面さで知られた。陸軍内には「上原は身なりにうるさい」と苦笑する士官もいたが、本人は「身を律することができぬ者に部隊は預けられぬ」と説いたという。工兵科という地味な兵科の出身が陸軍三長官の頂点に立った背景には、この生真面目さが横たわっていた。

大山巌との関係

義父・大山巌に対し、上原は終生「義父上」と呼んで頭が上がらなかったと伝わる。大山が西南戦争で同郷の弟・西郷従道とは別の立場で戦った経験を語る席で、上原は「自分はその覚悟を持てるか」と若い頃から自問していたという。2 個師団増設で内閣を倒した強硬路線の裏に、大山巌から受け継いだ「軍人としての覚悟」という価値観があったとされる。

青山霊園に眠る

上原勇作の墓は、青山霊園 1種イ11号19側。同じ「1種イ11号」の区画には、自由民権運動家・植木枝盛(12 側)などが眠る。

工兵将校から元帥にまで上り詰めた男が、大正民権運動家のすぐ近くに眠る配置は、明治日本の 「軍 vs 民権」という対立構造を地形に刻む象徴的な場所である。

墓所の位置

参考資料

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