E V E N T

対華二十一箇条要求


第一次大戦中の中華民国に対し、大隈重信内閣の加藤高明外相が二十一箇条の要求を提出。山東省ドイツ権益の継承、関東州租借期間延長、漢冶萍公司の日華合弁化などを迫り、強引な交渉の末ほぼ受諾させたが、中国に「国恥」の記憶を残し、後の排日運動の根源となった。

Takaaki Kato suit
Takaaki Kato suit Unknown authorUnknown author / Wikimedia Commons / Public domain
日付
カテゴリ
条約

大戦の隙を突いた二十一箇条の要求

大正四年(一九一五)一月十八日、日置益駐華公使は中華民国大総統袁世凱に対し、二十一箇条から成る要求書を直接手交した。要求は五号に分かれ、第一号で山東省のドイツ権益継承、第二号で関東州・南満州鉄道の租借権を九十九年まで延長、第三号で漢冶萍公司の日華合弁化、第四号で中国沿岸の港湾と島嶼の不割譲、第五号で中央政府への日本人顧問の招聘や警察の日華合同などを要求した。第一次世界大戦で欧州列強がアジアに目を向ける余裕がない隙を突き、日本の中国における特殊権益を一気に拡大する野心的な外交であった。第二次大隈重信内閣の加藤高明外相が主導した。

背景 — 大戦参戦と山東半島占領

第一次世界大戦勃発(一九一四年八月)から数週間、日本は日英同盟を根拠に対独参戦を表明。十一月までに山東半島のドイツ租借地・青島と、太平洋上のドイツ領南洋群島を占領した。山東半島の占領は中国の主権下にある領域でのドイツ権益の継承であり、本来は戦後処理で講和会議の決定を待つべきものであった。加藤外相は中国に対し、講和会議を経ずに直接二国間で権益移譲を確定させるべく、二十一箇条の交渉を立ち上げた。袁世凱政府の権力基盤の弱さを見透かし、欧米列強の関心が大戦に集中する好機を最大限に活用する判断であった。

経過 — 最後通牒と五月九日「国恥記念日」

袁世凱政府は第五号の中国主権への直接介入条項に強く抵抗し、四月までに二十回を超える交渉が行われた。日本は四月二十六日に修正案を提示し、五月七日には第五号を「希望条項」として撤回した最終案を最後通牒として突きつけた。袁世凱は二日後の五月九日にこれを受諾。袁の屈辱的譲歩を中国国民は「五月九日 国恥」として記憶し、これが反袁世凱運動・北京大学を中心とする学生運動・後の五四運動(一九一九)につながる大きな民族意識の覚醒を生んだ。形式的には日本の外交勝利だったが、長期的には中国全土に深刻な反日感情を植え付ける結果となった。

影響 — パリ講和会議の失敗と日中対立の固定化

二十一箇条要求は当時の欧米諸国にも警戒感を呼び、ウィルソン米大統領の対日不信を決定的にした。一九一九年のパリ講和会議で日本は山東権益の継承を主張するが、中国は強く反対し、最終的に九カ国条約(一九二二年ワシントン会議)で山東権益を放棄せざるを得なくなる。本霊園に眠る加藤高明はこの強硬外交を主導した責任者として戦前史に名を残す一方、後に首相として普通選挙法治安維持法の同時公布を行うなど、大正デモクラシー期の中心的政治家として複雑な評価を受けることになる。彼の対華強硬路線は、後の満州事変日中戦争へと連なる長い対立の地下水脈の起点であった。

参考資料

← 事件一覧に戻る