浜口雄幸狙撃事件
「ライオン宰相」浜口雄幸首相が東京駅で右翼青年・佐郷屋留雄に狙撃され重傷。ロンドン海軍軍縮条約への反発が背景。翌年没。
東京駅頭の銃声 — 戦前テロの幕開け
浜口雄幸狙撃事件は、昭和 5 年(1930 年)11 月 14 日午前 9 時前、東京駅丸の内南口ホームで、現職の内閣総理大臣・浜口雄幸が右翼団体・愛国社の青年に拳銃で狙撃された事件である。岡山県での陸軍特別大演習に向かう途中、改札を抜けたところでの凶行だった。
浜口は腹部に重傷を負ったが、その場で「男子の本懐」とつぶやいたと伝えられる。この一語が戦前政党政治家の覚悟を示す象徴句として歴史に残った一方、事件は浜口の死(翌昭和 6 年 8 月 26 日)と、井上準之助暗殺(1932 年 2 月)・五・一五事件(1932 年 5 月)へと連なる昭和初期テロリズムの起点となった。戦前日本の政党内閣が暴力に屈し始めた朝、その最初の銃声がこの東京駅頭で鳴った。
背景 — 金解禁とロンドン軍縮条約
事件の背景には、浜口民政党内閣が同時に進めていた二つの大事業がある。
第一は、井上準之助蔵相と組んで断行した金解禁(昭和 5 年 1 月 11 日)である。旧平価による金本位制復帰で日本経済を国際金融に再接続する構想だったが、前年 10 月のニューヨーク株式暴落に端を発する世界恐慌と重なり、デフレ・農村疲弊・失業を一気に深刻化させて昭和恐慌を招いた。「資本家を富ませ農民を殺す」と非難の声が拡がっていた。
第二は、昭和 5 年 4 月のロンドン海軍軍縮条約調印である。米英日の補助艦保有比率を 10:10:6.97 とする内容で、海軍軍令部はこれを「統帥権干犯」と糾弾。憲法上、軍の編成権は天皇に直属するもので内閣の独断は越権だ、とする論法であった。右翼団体・海軍青年将校・政友会の一部はこの論を共有し、浜口内閣への攻撃を強めていた。
世界恐慌と統帥権干犯論 — この二つの大波が重なる中で、佐郷屋留雄(当時 23 歳、愛国社所属)は浜口の暗殺を計画した。
昭和 5 年 11 月 14 日 — 「男子の本懐」
事件当日、浜口は岡山県下で行われる陸軍特別大演習の総裁役を務めるため、午前 9 時東京駅発の特急に乗る予定だった。閣僚や随員を従えて丸の内南口の改札を抜けプラットフォームへ向かう途中、その雑踏の中で佐郷屋が拳銃を発射。弾は浜口の腹部を貫通した。
倒れた浜口を抱えた随員に対し、浜口は「男子の本懐」と漏らしたとされる。この一句は新聞各紙が大きく報じ、瀕死の首相の覚悟を示す名言として国民の記憶に刻まれた。佐郷屋はその場で取り押さえられ、後に死刑判決を受けるが恩赦で減刑、戦後まで生き延びた。
浜口は東京帝大病院に搬送され、緊急手術で一命を取り留めた。翌昭和 6 年(1931 年)1 月、痩せ衰えた姿で議会に出席して政府提出予算案を可決させたが、傷の悪化により 4 月に首相を辞任、同年 8 月 26 日に死去。享年 61。
歴史的影響
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統帥権干犯論の制度化 — 浜口が銃弾を浴びた背景となった「統帥権干犯」批判は、以後あらゆる軍部抗命の理論的根拠となった。内閣が軍縮や軍政に踏み込む余地は急速に縮み、戦前日本の文民統制が事実上崩れていく。
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政党政治への暴力の連鎖 — 浜口狙撃は、井上準之助暗殺(1932 年 2 月)・団琢磨暗殺(同 3 月)・五・一五事件で犬養毅暗殺(同 5 月)へと続く政治テロの起点となった。「銃口で政策を覆せる」という前例が確立した。
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ロンドン軍縮条約体制の崩壊 — 浜口辞任後、若槻禮次郎内閣は満州事変への対応に失敗して総辞職。続く犬養毅内閣もテロで倒れ、ロンドン軍縮条約は昭和 11 年(1936 年)に日本側の脱退で失効する。海軍は無制限建艦時代に入り、米英との衝突路線を歩み始めた。
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「男子の本懐」の象徴性 — 倒れた浜口が漏らした一語は、政治家が原則のために命を差し出す姿勢として戦後の評伝・歴史教育で繰り返し引用された。司馬遼太郎・城山三郎ら戦後文学者の評伝の主題ともなり、戦前政党政治の理想を象徴する言葉として残った。
関連する偉人とその役割
浜口 雄幸(第 27 代総理大臣 / 立憲民政党総裁)
高知出身、東京帝大法科を経て大蔵省に入り、専売局長官・大蔵次官を歴任後に憲政会・立憲民政党の幹部として政界入り。重厚な風貌と豊かな口髭から「ライオン宰相」と呼ばれた。昭和 4 年(1929 年)に第 27 代内閣総理大臣に就任し、井上準之助蔵相と組んで金解禁・ロンドン軍縮条約という戦間期日本の選択を主導した。
東京駅で狙撃されてから 9 か月の闘病の末に死去。本霊園 1種ロ 8 号 1・14 側に、井上準之助・犬養毅・加藤高明らと同じ区画で眠る。戦前政党政治の中心人物が、テロで連続して倒れた一群の墓石となってこの一画に集まっている。
関連する作品
- 城山三郎『男子の本懐』(新潮文庫、1980 年) — 浜口雄幸と井上準之助の二人を主人公に、金解禁とロンドン軍縮条約を描いた評伝小説の代表作。NHK 大河ドラマ「山河燃ゆ」と並ぶ戦前政党政治を題材にした作品
- NHK 土曜ドラマ『男子の本懐』(1981 年、城山三郎原作) — 浜口を森繁久彌、井上を仲代達矢が演じた
- 司馬遼太郎『この国のかたち』所収「統帥権の問題」 — 浜口狙撃の背景となった統帥権干犯論を歴史的に整理
東京駅丸の内南口の床には、現在も狙撃地点を示すささやかな印が残されている。観光客の足元、誰も気づかない場所に、政党政治が銃声に屈し始めた朝の記憶が埋め込まれている。