松方 幸次郎
まつかた こうじろう
Matsukata Kojiro
川崎造船所社長として大正期の海運業を牽引。欧州で約一万点の西洋美術を収集し、国立西洋美術館の母体「松方コレクション」を遺した。
川崎造船を率い、印象派を集めた男
松方幸次郎は、明治大正期の代表的実業家にして、近代日本最大級の美術収集家である。川崎造船所(現・川崎重工業)の社長として日本の海運・造船業を牽引する一方、第一次世界大戦で得た巨額の利益を投じて欧州で印象派・ポスト印象派・ロダン彫刻など約一万点の西洋美術を収集。後に「松方コレクション」と呼ばれるこの蒐集は、戦後、国立西洋美術館(1959 年開館)設立の母体となった。
明治を作った父・松方正義(元勲・首相・大蔵卿、デフレ財政「松方財政」で知られる)の三男として生まれ、幼少より英米仏に学んだ国際感覚を武器に、産業と芸術の両分野で近代日本に独自の足跡を残した。「もし松方コレクションがなければ、戦後の日本人は印象派の本物を見るのに数十年遅れたかもしれない」 — 文化史にそう言い得るだけの規模と先見性をもって、西洋美術を日本に持ち込んだ人物である。
幸次郎の生涯は、実業家としての成功と挫折(昭和金融恐慌での川崎造船破綻、コレクションの一部喪失)、そして戦後のサンフランシスコ平和条約交渉によるコレクション返還まで、近代日本経済史・文化史の起伏と完全に重なっている。
元勲の三男、エール・パリへ
慶応 2 年(1866 年)1 月 17 日、薩摩国鹿児島に、後の元勲・松方正義の三男として生まれる。父・正義は維新後、大蔵卿・大蔵大臣・内閣総理大臣を歴任し、いわゆる「松方デフレ」による財政整理と日本銀行設立で知られる明治財政の支柱だった。幸次郎は父の引きで早くから国際的な教育を受け、米国エール大学・パリ大学に学んだ。
帰国後、明治 29 年(1896 年)、神戸の川崎造船所(初代・川崎正蔵が興した)の経営を引き受け、若くして社長に就任。船舶・機関車・橋梁・潜水艦まで手掛ける総合重工業企業へと育てた。同時に神戸瓦斯・神戸新聞などの経営にも関与し、神戸の近代都市化を背後で支える存在となった。第一次世界大戦(1914-1918)に伴う未曾有の船舶需要 — 「大戦景気」 — を背に、川崎造船は急膨張。幸次郎自身も巨額の私財を得た。
欧州で印象派を買い漁る
大正 5 年(1916 年)、幸次郎はロンドン・パリへ渡り、本格的に美術収集を開始する。動機は明確だった。「日本の画家・学生に本物の西洋美術を見せたい。日本にいながら西洋美術館に通えるようにしたい」 — 当時の日本には西洋絵画の本物がほとんど存在せず、画家志望の若者は欧州留学なしには本物を見ることすら叶わなかった。
ロンドンではフランク・ブラングィンの助言を得て、パリでは画家本人や画商から直接買い付けた。モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、ピサロ、シスレー、マネ、クールベ、ドガ — 印象派・ポスト印象派の名だたる画家の作品を、一個人として前例のない速度と規模で蒐集した。特にモネ晩年の「睡蓮」連作は、画家本人のジヴェルニーのアトリエを直接訪ねて選び抜いたことで知られる。
彫刻ではロダンの作品を世界最大級のスケールで購入。『考える人』『カレーの市民』『地獄の門』ほか主要作のブロンズ鋳造を一括で押さえ、後の国立西洋美術館前庭を飾るロダン彫刻群はすべてこの時の蒐集である。蒐集総数は絵画・彫刻あわせて約一万点と推定される。
昭和金融恐慌と、戦争を挟んだコレクション
蒐集の頂点は短かった。大正 12 年(1923 年)の関東大震災、続く昭和金融恐慌で川崎造船所は経営危機に陥り、昭和 2 年(1927 年)幸次郎は社長を辞任。コレクションの一部は債権整理のため日本国内で散逸した。ロンドン保管分は昭和 14 年(1939 年)の倉庫火災で大半を焼失。パリ保管分(約 400 点)は第二次大戦中フランス政府に敵国財産として接収された。
戦後、サンフランシスコ平和条約(1951 年)の交渉過程で日本政府はパリ保管分の返還を要求し、最終的にフランス側から「寄贈返還」の形で 375 点が日本へ帰国(モネ『睡蓮』の代表作・ゴッホ『アルルの寝室』など一部はフランス側に残された)。この返還美術を中核として、昭和 34 年(1959 年)、東京・上野公園に国立西洋美術館が開館。設計はル・コルビュジエ、ル・コルビュジエの日本唯一の建築作品にして、2016 年世界遺産にも登録された建物である。
幸次郎自身は衆議院議員(神戸選出)も務め、財界・政界の両方で活動した。
鎌倉で静かに終えた晩年
昭和 25 年(1950 年)6 月 24 日、神奈川県鎌倉の自邸にて死去。享年 84。コレクションの大半が戦争で散逸し、国立西洋美術館の構想が動き始めるまで生きながら、開館(1959 年)を見届けることはついに叶わなかった。だが、戦後 9 年を経て自らの蒐集した絵画が東京・上野で日本人の目に晒される未来は、晩年の彼の眼前にすでに見えていたと言われる。
青山霊園に眠る
松方幸次郎の墓は、青山霊園 1種イ17号1側。同じ「1種ロ17号1側」には父・松方正義(元勲・大蔵卿・首相)が眠り、明治財政を築いた父と、その富で西洋美術を日本に持ち込んだ子が、隣接する区画で並んでいる。
青山霊園には父・正義のほか、大久保利通・後藤新平・小村寿太郎ら明治国家を作った政治家たちが眠る。その同じ霊園に、明治の財がそのまま大正の美術蒐集に転化した姿を体現する松方幸次郎が眠っているのは象徴的である。上野の国立西洋美術館で『睡蓮』や『考える人』の前に立つとき、そのコレクションを欧州から運んだ人物の眠る場所が、ここ青山にある。




