長與 善郎
ながよ よしろう
Nagayo Yoshiro
白樺派の作家。長与専斎を父に、長与又郎(東大総長)を兄に持つ家系で、戯曲『項羽と劉邦』や小説『青銅の基督』を残した。
白樺派の作家、長与専斎の三男
長與善郎は、明治の代表的衛生行政家・長与専斎の三男(五男とする説もあり、八人兄弟の中で文学の道に進んだ唯一の人物)として生まれ、白樺派の同人として志賀直哉・武者小路実篤らと活動した小説家・劇作家である。
主要作品は戯曲『項羽と劉邦』(大正 6 年/1917 年)、小説『青銅の基督』(大正 12 年/1923 年)、自伝的小説『我が心の遍歴』(昭和 35 年/1960 年、読売文学賞)。キリスト教信仰、中国古典、人道主義の三つの主題が作品全体を貫く。
兄・長与又郎は東京帝国大学医学部教授・東京帝大第 14 代総長を務めた病理学者で、医学一族の中で唯一文学に進んだ善郎は、「医家の家系の異端児」として育った。
昭和 23 年(1948 年)日本芸術院会員。昭和 35 年(1960 年)読売文学賞。昭和 36 年(1961 年)10 月 29 日、東京・世田谷の自宅で心不全により死去。享年 73。墓所は青山霊園 1イ2-2-6。
長与家 ——五代続いた医家の家系
明治 21 年(1888 年)8 月 6 日、東京府東京市麹町区に生まれる。父・長与専斎は当時 50 歳、明治政府の衛生行政の祖として内務省衛生局長を務めた医家。母は専斎の後妻・友子。
長与家は肥前国大村藩の藩医を代々務めた家系で、曽祖父・長与俊達は江戸末期に佐倉順天堂(現・順天堂大学)で蘭学を学んだ蘭医、祖父・長与中庵も藩医、父・専斎は明治政府の医療行政を整えた人物。五代続いた医家の家業を、八人兄弟の中で誰かが継ぐべき家であった。
長兄・長与稱吉は医師、次兄・長与又郎(明治 11 年-昭和 16 年)は東京帝大医学部教授・第 14 代東京帝大総長を務めた病理学者。五男・善郎は家系の中で唯一文学の道に進んだ「異端児」として、白樺派の同人へと向かう。
学習院・東京帝大、白樺派の同人へ
明治 33 年(1900 年)、12 歳で学習院中等科に転校。学習院では志賀直哉(1 年上)・武者小路実篤(3 年上)らと同窓となり、後の白樺派の人脈を形成する。明治 44 年(1911 年)、東京帝国大学英文科入学。翌大正元年(1912 年)、文学に専念するため中退した。
白樺派は明治 43 年(1910 年)、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎・里見弴らによって雑誌『白樺』創刊で始まった、大正期日本を代表する文学運動である。トルストイ・ロダン・セザンヌら西洋の人道主義・芸術運動を紹介し、個人主義と人格主義を文学の根本に据えた。
善郎は白樺派の同人として参加。志賀直哉とは生涯の盟友となり、白樺派衰退後も交友を続けた。
戯曲『項羽と劉漀』(大正 6 年)
大正 6 年(1917 年)、戯曲『項羽と劉漀』を発表。中国・楚漢戦争(紀元前 206-202 年)を題材に、項羽の悲壮な滅亡と劉邦の勝利を対比した壮大な歴史劇である。
戯曲は当時の演劇界で大規模に上演され、善郎の名を文壇に確立した。中国古典を題材にしながら、白樺派の人道主義的視点で人物を造形する独自の手法が評価された。
小説『青銅の基督』(大正 12 年)
大正 12 年(1923 年)、長編小説『青銅の基督』発表。江戸初期の長崎を舞台に、踏絵の青銅基督像を作った職人の苦悩を描いた歴史小説である。
キリスト教信仰と禁教時代の宗教弾圧、芸術家としての職人の良心 — 善郎の文学の主題が凝縮された作品で、白樺派の人道主義の文学的到達点の一つとされる。後年、芥川龍之介・遠藤周作らによる「日本のキリスト教文学」の系譜の源流に位置づけられる作品である。
戦時期と戦後 ——転向と回帰
戦時期、善郎は日中戦争の中国大陸視察を経て『私の見た現在の支那』(昭和 13 年/1938 年)を執筆。中国情勢への現実的論評で、白樺派時代の純粋な人道主義からは距離のある立場を示した。これを「転向」と批判する論者もいる一方、当時の文化人の中国観の典型的な揺れとして読み直されている。
戦後、善郎は白樺派の盟友・志賀直哉らと交友を再開し、文学活動を継続。昭和 23 年(1948 年)、日本芸術院会員に推薦された。
晩年の代表作が自伝的小説『我が心の遍歴』(昭和 35 年/1960 年)。明治末から戦後にかけての自己形成と思想の変遷を率直に綴り、読売文学賞を受賞した。
昭和 36 年(1961 年)10 月 29 日、東京・世田谷の自宅で心不全により死去。享年 73。
逸話・エピソード
長与家の中で唯一の文学者
長与家は曽祖父・俊達(蘭医)、祖父・中庵(藩医)、父・専斎(衛生行政家)、長兄・稱吉(医師)、次兄・又郎(病理学者・東大総長) — 五代続いた医家の家系である。
善郎は八人兄弟の中で唯一医学を選ばず、文学の道に進んだ。父・専斎の死(明治 35 年/1902 年)時、善郎は 14 歳。父からの直接的な医学継承の圧力は受けなかったが、長与家の周辺は医学の世界そのものだった。
学習院時代に志賀直哉・武者小路実篤らと出会い、白樺派の人道主義に触れたことが、善郎の文学への進路を決定づけた。長与家の医家としての伝統の中に、白樺派の文学者という異質な人物が一人だけ存在することになった。
兄・長与又郎の東大総長就任 ——医学一族の頂点
次兄・長与又郎は東京帝国大学医学部教授(病理学)を経て、昭和 9 年(1934 年)から昭和 13 年(1938 年)まで第 14 代東京帝国大学総長を務めた。同時代に山川健次郎(青山霊園に眠る)が歴代最長の総長記録を残した東大の系譜で、長与又郎は満州事変後の困難期の総長として記憶される。
弟・善郎の文学活動は、東大総長を務める兄から距離を取った場所で展開された。又郎は文学を否定しなかったが、医学者として善郎の活動には直接関与しなかった。「医家の家系の中で、文学者の弟と東大総長の兄が並列する長与家」 — 近代日本のエリート家庭の多様性を示す家系のあり方として知られる。
白樺派の盟友・志賀直哉との生涯の交友
善郎と志賀直哉は学習院中等科以来の友人で、白樺派時代を共に過ごし、白樺派衰退後も生涯交友を続けた。志賀は青山霊園に眠る作家で、善郎の墓と同じ霊園内に位置する(1種イ2号11側)。
戦後、善郎が自伝的小説『我が心の遍歴』を執筆した時、志賀直哉は最初の読者の一人として原稿を読み、感想を伝えたと伝わる。白樺派の同人だった二人の作家は、明治末から昭和末まで半世紀以上にわたる友情を保ち、近代日本文学の二つの位置からそれぞれ独自の作品を残した。
青山霊園に眠る
長與善郎の墓は青山霊園 1イ2-2-6 にある。同じ青山霊園には、父・長与専斎、曽祖父・長与俊達、白樺派の盟友・志賀直哉、明治期文学の先輩・尾崎紅葉 — 善郎と血縁・文学で結ばれた人々が並んで眠っている。
五代続いた医家の家系の中で唯一文学者となった一生は、ここで父祖と文学の同志たちの隣で終わる。




