上野 英三郎(と忠犬ハチ公)
うえの えいざぶろう
Ueno Eizaburo
東京帝国大学農学部教授、日本の農業土木の父。死後10年も渋谷駅で待ち続けた愛犬ハチ公の物語で世界に知られる農学者。
渋谷駅で待ち続けた犬の飼い主 — 農業土木の父
上野英三郎は、東京帝国大学農学部教授として日本の農業土木・農業工学の体系を作った農学者であり、世界的には飼い犬・ハチ公の物語で知られる。明治5年(1872年)に三重県津市で生まれ、東京帝国大学農科大学を卒業後、農業土木を専門に研究と教育に従事。耕地整理・灌漑排水の理論を体系化し、後に農業農村工学会が「上野賞」を設けるほど学界の基礎を築いた。
大正13年(1924年)1月、生後50日の秋田犬を貰い受け、ハチと名付ける。ハチは上野が渋谷駅から東京帝国大学に通勤する日々を送り迎えする愛犬として、近隣でも親しまれた。大正14年(1925年)5月21日、上野は東京帝国大学農学部の教授会の席上、突然の脳出血で急逝。享年53。ハチはそれから10年近く、渋谷駅前で帰らない主人を待ち続けた。
三重県津から東京帝国大学農科大学へ
明治5年(1872年)1月19日、三重県津市で生まれる(旧暦明治4年12月10日)。三重師範学校・第三高等学校(京都)を経て、明治28年(1895年)7月、東京帝国大学農科大学を卒業し農学士の称号を得る。
卒業後は大学院に進み、農業土木 — 耕地の整地・灌漑排水・農道整備の工学的体系化 — を専攻。当時の日本では未開拓のこの分野を、欧米の事例研究と国内の現地調査を重ねて理論化した。
農業土木という新分野を立ち上げる
明治33年(1900年)8月、東京帝国大学農科大学講師、明治35年(1902年)3月に助教授、その後農業土木学講座を担当する教授となる。
上野が手掛けた研究は、耕地整理法(明治32年制定)の実務応用、灌漑排水設計の理論化、土壌物理学の農学への応用など、戦前日本の農業近代化を支える基盤となった。「農業土木」という日本語の学術用語そのものを定着させた人物としても知られ、戦後の農業農村工学会が彼の業績を記念して「上野賞」を制定するに至る。
教師としても温厚で熱心だった上野は、学生・同僚から慕われ、自宅(東京・渋谷区松濤)を学生に開放して指導したという。
ハチとの出会い — 大正13年1月
大正13年(1924年)1月、上野は秋田県大館市の同郷の知人を通じて、生後50日の秋田犬の雄をもらい受け、ハチと名付けた。当時52歳。子供のいなかった上野は妻・八重子とハチを可愛がり、毎朝渋谷駅まで送り、夕方は駅で出迎えさせた。
ハチは早朝・夕方の渋谷駅の風景の一部となり、駅員・通行人・近隣の商店主からも親しまれた。「上野博士の犬」として渋谷の名物だったという。
大正14年5月21日 — 帰らぬ主人
大正14年(1925年)5月21日、上野は東京帝国大学農学部の教授会の最中、脳出血で突然倒れ、その日のうちに帰らぬ人となった。享年53。ハチは前日の夕方も上野を駅で出迎えていたが、その朝の上野は予定外の早朝出勤で渋谷駅を通らず、家を出ていた。
葬儀後、ハチは上野家の知人・小林菊三郎(渋谷の植木職人)に引き取られた。しかし毎日決まった時間に渋谷駅まで散歩のように出かけ、上野が帰ってくるはずだったホームの方向を見つめて待った。この行動は、上野の死後ほぼ10年、ハチが昭和10年(1935年)3月8日に渋谷駅近くで衰弱死するまで続いた。
「忠犬ハチ公」の誕生 — 世界に広がる
ハチの行動を新聞が取り上げたのは、上野の死から7年後の昭和7年(1932年)。東京朝日新聞の記事「いとしや老犬物語」が大反響を呼び、ハチは一躍国民的なシンボルとなった。
昭和9年(1934年)、生前のハチをモデルにした最初のハチ公像(安藤照作)が渋谷駅前に設置される。除幕式にはハチ本人も招かれた。翌昭和10年(1935年)3月8日、ハチは渋谷の路上で衰弱死。剥製は国立科学博物館に展示されている。
映画化は二度。昭和62年(1987年)の松竹『ハチ公物語』(脚本・新藤兼人、主演・仲代達矢)、平成21年(2009年)のハリウッド・リメイク『HACHI 約束の犬』(リチャード・ギア主演、ラッセ・ハルストレム監督)で、ハチの物語は世界中の観客の涙を誘った。
平成27年(2015年)3月8日、ハチ没後80年に「上野英三郎博士とハチ公像」が東京大学農学部の弥生キャンパスに建立された。渋谷駅前と東京大学農学部 — 主人とハチ公が90年ぶりに再会する形になった。
逸話・エピソード
ハチの名前の由来
上野は秋田犬を貰い受けた当初、生後 50 日の子犬の後ろ足が八の字に開いていたことから「ハチ」と名付けたと伝わる。妻・八重子の「八」にちなんだという説もあり、いずれにせよ家庭の小さな観察から生まれた素朴な命名だった。後にこの一文字の名が世界中で知られることになるとは、上野自身も予想しなかったろう。
渋谷の松濤の家
上野家は渋谷区松濤にあり、玄関先には学生がいつも数人出入りしていた。上野は学生を呼んで自宅の応接間で研究指導をする教授で、夕食を共にすることもしばしばだった。ハチはその学生たちにも懐き、夜遅くまで議論する青年たちの足元で眠っていたという。「上野先生のところに行けば犬と教授が一緒に出迎えてくれる」 — 当時の農学部学生の回想に残る情景である。
急逝の朝、最後の見送り
大正 14 年 5 月 21 日の朝、上野は予定外の早朝出勤で、渋谷駅を経由せず家を出ていた。それでもハチは普段通り駅まで散歩に出かけ、いつものホームを見つめていたと、駅員の回想にある。その夕方、上野は教授会の最中に倒れ、二度と渋谷駅に戻ることはなかった。ハチが 10 年待ち続けた起点は、この「いつもと違う朝」だった。
青山霊園に眠る — ハチも傍らに
上野英三郎の墓は、青山霊園 1種ロ8号1・14側にある。同じ「1種ロ8号」の区画には、加藤高明・浜口雄幸・井上準之助・犬養毅・頭山満・牧野伸顕・松平恒雄・大達茂雄 — 戦前日本の政治・外交・経済の中枢を担った人々が眠る。
その同じ区画に、農学者・上野英三郎の墓があり、墓の傍らに「忠犬ハチ公」の墓碑が並んで立つ。昭和10年(1935年)のハチ公の死後、ハチの遺骨の一部が上野家の墓所に納められた。
戦前の総理大臣・外相・蔵相が並ぶ青山の名門区画に、主人と愛犬が静かに寄り添って眠る — この光景は、日本人が「忠誠」「家族」「死」をどう感じてきたか、最も穏やかに伝える場所の一つである。


